人間は自然に(変化して)進化してできたのだ。それで何か不都合があるのか。
前述の通り、進化論は確たる根拠のない「仮説」だと言わざるを得ません。しかし、それを真理だと信じる人もいます。そういう方々にとっては、人間は偶然の産物、偶然の積み重ねでひとりでに「自然に」できた存在だということになります。そう考えるなら、人間(その一員たる自分)が今このように存在しているのは(偶然の積み重ねですから)必然ではありません。
必然でない存在なら、(本来は)どのように生きようと自由ですし、勝手です。生き続ける必然性もありません。勝手気ままに生き、勝手気ままに死んでいい、ということになります。そうした人にとっては、存在すること自体が意味がないことになり、その人生でぜひしなければならないこともないし、人生をどのように生きるべきだという目的もないのです。何しろ、偶然にできたのですから。
このように、人間が進化してできたと考えるなら、(心の底では)生きる意欲が湧かず、虚無的人生観にとらわれやすく、強い者勝ち、運・不運の論理の不合理な人間社会をただ受忍するだけ。面白くもない、残酷な世界観となってしまいます。
特に、どうあらねばならない、という道徳観も土台も失いますから、見つからなければ何をしてもいい、ただ強い者に従っておけばいい、という不道徳な人生観、時に殺伐な社会観となります。
現に、日本社会は進化論が支配していますから、上述の精神構造が実現しています。少しつまずくと「もう死んでやれ」ということになって、自殺する人が年に3万人を超える状態が10年以上も続いていました。それも、むべなるかな、です。自殺対策を政府が検討していますが、それなら、進化論教育をやめる方が効果がありましょう。
人間は少しずつ偶然に変化を重ねていつの間にか進化してできた存在ではなく、神が、その愛の対象としてお造りになった存在です。ここに、人間存在の意味があり、希望があり、道徳・善悪・生きがいの土台があるのです。
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