本コラムについて 宮村武夫・本紙論説主幹
2017年2月、今年も沖縄訪問・宣教の機会を与えられました。今回で連続6回目です。今回受けた特記すべき恵みの1つは、2017年2月20日、沖縄中部教役者会例会で、国吉守先生(那覇バプテスト教会名誉牧師)が発表なさった講演のレジメを石川福音教会の重元清先生から頂いたことです。
以下の、国吉先生による「次世代宣教を担う牧師たちへの提言」は、国吉先生の常にバランスのとれた生き方に基づくものです。しかも、内に燃える思いと、何者にも何事にも打ち消されない一貫性に貫かれたキリスト信仰から記述された、沖縄の教会の戦後史の素描です。国吉先生は、そのただ中を生き抜かれたのです。
確かに「次世代宣教を担う牧師たちへの提言」としては、直接的な将来への提言が欠けているように判断されます。しかし、聖書の中で典型的な次世代への提言である申命記全体は、過去の歩みの回顧と将来への展望とが一体となっています。過去の歩みはそのただ中を歩んだモーセ自身の生き方と切り離すことのできないものです。
今回掲載されている講演部分は、まさに沖縄の戦後を舞台に展開されている歴史の回顧です。しかも、申命記の場合と同様、歴史のただ中を歩んだご自身による記述です。
では、申命記の将来への展望に当たる部分は、国吉先生の講演においてどのように記述されているのでしょうか。一見して直接的な記述が欠けているとの判断もなされる可能性があります。しかし、申命記の場合と同様に、過去の回顧は、単なる歴史の事実を並べているだけではないのです。なぜ、この事実をこのように記述しているのか、その意図・神学が重要であり、鍵です。
申命記を読んでいるとき、そこにはこの事をこのように記したモーセ自身のやむにやまれぬ将来への展望の思いがにじみ出ている事実に気付かされます。そのような気付きを与えられ、真に回顧する者が、将来を展望する認識を自らのものとする訓練を同時に受けることになります。
そのような訓練を受けながら、国吉先生の申命記的精神で記述されたレジメを読むとき、沖縄宣教へのあつき思いを、年を重ねるに従い、ますますたぎらす国吉先生の「次世代宣教を担う牧師たちへの提言」が、静かに伝わってくるのではないでしょうか。
今回のコラムは、やがて国吉先生が語り、国吉先生の後任・城倉翼牧師がパソコンに口述を打ち込む共作『国吉守牧師自伝―銃口も消し去り得ない恵みの生涯―』の先駆けとなるよう心から期待します。そこには、より徹底的に回顧がなされ、将来への提言が明示されると期待します。その時を待ち望みつつ、以下の文章を余韻や豊かな含みのある素描として読んでいただければ幸いです。
次世代宣教を担う牧師たちへの提言 那覇バプテスト教会名誉牧師 国吉守
はじめに 第2次世界大戦と沖縄
日本は、1931年に満州事変を起こし、戦火はさらに広がり、1937年には日中戦争となり、1941年にはアジア太平洋戦争に突入し、ドイツ、イタリアと三国同盟を結び、アメリカ、イギリス、フランス等の連合軍を相手の対戦に突入したのです。そのため、軍事基地として沖縄の重要性はさらに増し、沖縄が戦場となることは明らかでした。
そこで日本の軍部は、連合軍が沖縄上陸を決行すると見て、老人や女性や子どもたちを本土や台湾に疎開させるよう政府に伝えました。
その結果、1944年8月、小学生と一般人を乗せた疎開船「対馬丸」が那覇港を出港しました。ところが、対馬丸は悪石島付近で米潜水艦の魚雷を受け、沈没しました。そのため児童738人を含む、乗客1747人が犠牲となりました。8月22日夜のことでした。
戦後も、関係者たちはこの悲劇を忘れることができず、海上慰霊祭を続けています。そして、1997年に海底に沈む対馬丸が発見され、悲しみを新たにしました。今なお犠牲者の傷は癒やされていません。
戦後の沖縄における教会関係の動き
1. 「沖縄キリスト教連盟」の結成
1946年2月6日、キリスト教各派による沖縄キリスト教連盟が結成されました。連盟会則2条には「本会ハ沖縄全島内各教会ガ協力シ『キリスト』教ノ新旧各派ヲ区別スルコトナク之ガ普及ヲ図ルヲ以テ目的トス」となっています。そして附則8条には、「本会ハハワイニ於ケル『レプタ』会ノ趣旨二賛同シ相聯絡シテ其事業遂行ニ協力従事スルモノトス」となっています。
役員の構成は次のとおりでした。
役員(1947年1月7日改選)
顧問 軍政副長官 クレイグ大佐
仝 軍政府牧師 ゼニング大尉
仝 民政府知事 志喜屋孝信
理事長 當山正堅
理 事
仲里朝章、照屋寛範、神山本淳、佐久原好信、島袋昌子、
與名城勇、比嘉盛仁、津嘉山澄子、知花俊雄
2. 沖縄YMCAの発足
1947年9月25日、沖縄YMCA本部創立総会が知念民政府で開催され、会長に比嘉善雄牧師、副会長に與名城勇牧師、津嘉山澄子牧師が選出されました。YMCAの組織は各地の教会に伝えられ、キリスト者が中心となって活動が展開されました。
発足以来、独自の歩みを続けてきたYMCAも、1961年に本土各都市の組織に準ずる沖縄YMCAとなり、池宮城秀意会長と知念一郎主事の新体制で再出発することとなりました。
3. 戦後初の福音誌「ゴスペル」の発刊
1948年、ハワイ在住の沖縄クリスチャン諸兄姉によるレプタ会から贈られてきた救援物資の中に1台の謄写板があり、與名城勇牧師は連盟理事会の許可を得て、これを文書伝道に用いるため「ゴスペル」誌の編集を始めました。
用紙、インクの確保、記事取材、印刷の原紙切り、挿絵やカット等々、今日では想像もできない種々の困難を乗り越えて「ゴスペル」誌は誕生し、当時の沖縄キリスト教界唯一の福音誌として喜ばれましたが、1951年第9号をもって一応幕を閉じることとなりました。
4. 本土復帰の実現
1972年5月15日に復帰は実現しましたが、県民の求めていた「核も基地もない平和な沖縄」ではなく、核の問題も明確にされず、基地の存続を前提にしたままの本土復帰となったのです。
当時の屋良朝苗県知事は「そこには米軍基地の態様の問題をはじめ、内包する多くの問題がある。これを背負い込んで復帰したわけである。・・・復帰とは、沖縄県民にとって、自らの運命を開拓し、歴史を創造する世紀の大事業である。・・・平和で豊かで安定した希望の持てる新しい県づくりに邁進(まいしん)する決意である」とあいさつされました。
あれほど待ち望んでいた本土復帰であったのに、素直に喜べないのが県民大半の心情でした。
復帰協主催の「五・一五県民総決起大会」には約1万人が参加して、復帰の在り方を「沖縄処分」と糾弾しました。
日本政府は、沖縄が米国支配にあった27年間に生じた経済格差是正のため、復帰特別措置を講じました。その法的根拠を設けるために「沖縄開発特別措置法」「沖縄開発庁設置法」「沖縄開発金融公庫法」の沖縄開発三法を制定しました。
また、復帰記念事業として、1972年に復帰記念植樹祭、沖縄特別国民体育祭(若夏国体)が、そして1975年7月から6カ月にわたる沖縄国際海洋博覧会が実施され、沖縄の本土復帰が全国的にアピールされました。
5. 講和条約と日米安全保障条約
1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、米国の沖縄統治が始まりました。しかし、この条約が日本の国会で承認されたとき、沖縄からの議員は1人もいませんでした。沖縄の意志は全く無視されて、この条約は締結されたのです。そのため、沖縄では1952年以降4月28日を「屈辱の日」としています。
6. 戦後の教会の動き
○南部教役者会
1971年3月に第1回クリスチャン修養会を八汐荘で開催して以来、毎年クリスチャン修養会大会を開催して信徒の弟子化を強化しました。
○中部教役者会
第1回ペンテコステ大会を1983年に伝道大会として開催して以来、毎年ペンテコステ大会を開催して、伝道・救霊の強化を推進しています。
○北部教役者会
北部会館を主たる会場として本田クルセードなど、北部キリスト教講演会として開催してきています。最近はコンサート形式で行うことも増えています。
このように、南部教役者会、中部教役者会、北部教役者会が中心となって沖縄本島における超教派の伝道、弟子化運動、朝祷会等の各集会は、教役者間の交わりと協力が中心となって推進されました。その他、離島の伝道、久米島、伊江島等の伝道も宣教師等の協力でなされました。
7. 平良修牧師の祈り
1966年秋、琉球列島米国民政府高等弁務官アンガー中将の就任式の祈りが問題となり、新聞紙上で報道されました。特に「最後の弁務官となり」という言葉が注目され、賛否2つの意見に分かれました。
8. 総動員伝道と神への復帰
1972年に本土復帰が実現しましたが、戦前、戦中、戦後の沖縄の苦難の歴史は、復帰によっても解決されませんでした。県民は名実ともに日本人となった喜びはあっても、沖縄の現実は、基地があるが故にあまりに多くの矛盾に満ちていたのです。基地撤去を叫びつつ、基地経済に頼らざるを得ない現実、平和を願いつつ、戦争行為に加担せざるを得ないこと等、実際に軍関係で働く人々だけでなく、県民が等しく感じる精神的苦悩であり、矛盾です。
このような状況の中で沖縄の教会は、神にこそ真の解決があり、神こそ真の希望であることを確認し、本土の教会との協力を得て、1972年に「我らの希望、神への復帰」をテーマに、「沖縄総動員伝道」を展開しました。全国から40人の牧師、伝道者が大挙来島し、沖縄の各地域で一斉伝道が行われ、本土と沖縄の教役者の交わりが深められ、各地の教会は伝道と救霊のビジョンに燃えました。
9. 戦前、戦中、戦後の沖縄のたどった道
沖縄のたどってきた道は、琉球王国時代の「ウチナーユー」(沖縄世)から、琉球処分によって「ヤマトゥユー」(大和世)となり、太平洋戦争の「イクサユー」(戦世)となり、戦後の「アメリカユー」(米国世)となり、祖国復帰によって再び「ヤマトゥユー」となって今日に至っています。これはすべて、県民自治の及ばない時代の流れの中で起きた歴史の事実であり、「沖縄県」がたどってきた歩みです。
日本は、1931年に満州事変を起こし、戦火はさらに広がって、1937年には日中戦争となり、1941年にはアジア太平洋戦争に突入しました。日独伊同盟国、アメリカ、イギリス、フランス等の連合軍との戦争となり、沖縄の基地がさらに重要な戦場となりました。
沖縄は唯一の地上戦場となり、集団自決、ひめゆりの塔、健児の塔等の戦争犠牲が続出したのです。
10. 戦後沖縄の基地の問題
日米安保条約の6条「基地の提供」に基づいて、米軍の日本国内における地位を限定することを目的に締結された28条から成る協定が日米地位協定です。これが特に問題にされるのが、裁判権に関して「日本国が裁判権を行使すべき合衆国軍隊の構成員又は軍属たる被疑者の拘禁は、その者の身柄が合衆国の手中にあるときは、日本国により公訴が提起されるまでの間、合衆国が引き続き行なうものとする」という条文等。
この条文の故に、被疑者は基地内で守られ、警察は直ちに拘束できないため、かえって問題を複雑にしているのです。
米軍用地特措法に基づく強制使用は1982年、1987年、1992年に次いで1997年4度目でしたが、政治環境がこれまでと変わり、村山連立政権下で初めて同法が適用されることとなりました。
この頃、あの米兵による暴行事件が起きたため、太田知事(当時)は態度を硬化させ、代理署名に応じないことを明らかにしました。知事の判断は圧倒的支持を得ましたが、政府は強権を発動して知事の代理署名なしに直接政府が手続きできるようにして、軍用地の強制使用を実施したのです。
11. ハワイと沖縄を結んだ平松伝道
ハワイ在住の沖縄のクリスチャンたちが、北米伝道の帰途ハワイに立ち寄った平松実馬牧師に「ぜひ、沖縄へ行ってください」と祈りに合わせて献金を渡されたことがきっかけとなって、1958年10月に超教派による第1回平松沖縄伝道が実現しました。それから、各個教会での巡回伝道、タイムスホールでの大伝道会等、会衆は会場にあふれ、ハワイのクリスチャンの熱祷が沖縄に伝わった感を強くしました。
12. 世界平和運動促進大会
1951年6月23日、沖縄の「慰霊の日」に、那覇市旧メソジスト教会堂を会場に世界平和運動促進大会が開催され、戦火のため惨憺(さんたん)たる姿に変わった会堂に2千人余の会衆が参加し、平和のアピールがなされました。
この大会で決意表明したのは、当時の沖縄を代表する志喜屋孝信、比嘉秀平、平良幸一、比嘉善雄の4氏で、沖縄タイムス社の豊平良顕氏が「世界に平和が来るか」と題して講演されました。その講演で豊平氏は、アインシュタイン博士の言辞を引用して論を展開し、「されば平和運動の推進は、平和教育の促進にあり、平和教育の促進は、平和の君イエス・キリストを心に迎え入れて、国民が心の変革を図るにあると信ずる者であります」と締めくくったのです。このような一般の大会でありながら、最後に與名城勇牧師の祈祷で閉会したことも神の摂理でした。
13. 沖縄MTLの結成
沖縄のハンセン病対策として1935年5月13日、日本基督教会の首里教会において教職者会が開かれ、「沖縄MTL(Mission to Lepers)」が結成され、療養所建設促進運動を展開することとなりました。早速要員の1人が本格的募金運動に繰り出し、本土の「日本基督教会」等の賀川豊彦氏等の協力を得て、三井報恩会が日本のハンセン病対策のために多額の寄付をすることとなり、沖縄MTLに大きな励ましとなりました。
沖縄愛楽園は多くの困難を経て、1937年には大堂原にまず「沖縄MTL相談所」を開設することができました。40人の入所者は、青木惠哉氏を中心にキリスト教信仰に導かれ、教会堂では朝夕賛美の声が聞かれるようになりました。
次に目的の国立診療所です。手順として、まず沖縄MTLの委員の名義で周辺の土地を購入し、それを県の名義に変更する手続きを取り、ついに3千余坪の土地を取得しました。こうして、新しい建物も次々建築され、1938年に待望の「国立診療所国頭愛楽園」が完成し、300人余が収容され、新しい生活が始まりました。
14. 戦災孤児の施設愛隣園
1953年9月10日に、戦災孤児の収容を主とした施設として「愛隣園」が与那原に創設されました。愛隣園は保護者のいない児童、虐待されている児童、その他環境上養護を要する8歳未満(乳児を除く)の児童を入園させ、キリスト教精神に基づいて児童一人一人の人権と福祉を増進し、将来彼らが健全な社会の一員として役割を担えることを目指しています。初代の比嘉メリー園長に継いで、2代目の渡真利源吉園長、現在は4代目の園長となっています。
15. 沖縄キリスト教協議会(OCC)
この協議会は、戦後の沖縄におけるキリスト教教派、キリスト教団体、教会等が大同団結して1958年に結成された最初のキリスト教協議会です。協議会に賛同する沖縄キリスト教団、沖縄聖公会、沖縄バプテスト連盟、ルーテル教会、キリストの教会、セブンスデー・アドベンチスト教団、ホーリネス教会等が加盟しました。OCCは人権、差別、反戦、平和、基地の問題等に対して、キリスト教の社会的責任として発言し、行動し、講演会やセミナー等も継続して開催しています。
時代の変遷の中でOCCも幾多の変遷を経て今日では、日本基督教団沖縄教区、バプテスト教会、改革派教会、カトリック教会や琉球キリスト教奉仕団、キリスト教保育連盟沖縄支部、日本キリスト教婦人矯風会沖縄支部会等が加盟して活動を続けています。
OCCは、反戦平和の立場に立って靖国神社法案や新ガイドライン法案など、民主主義に反する多くの法案に反対声明を出して、キリスト者の証しを立てています。同時に、沖縄の歴史、文化、宗教、土俗等の研究を通して宣教の拡大を図っています。
1984年2月には、沖縄キリスト教協議会25周年記念誌が発行されました。また、同協議会が母胎となって新たに全教派に拡大された実行委員会による「‘98沖縄伝道・宣教会議」が1998年11月に開催されました。
16. 世界宣教沖縄大会
1988年10月8日から10日まで3日間にわたって、「今、はばたけ世界宣教」を主題に“沖縄から世界へ”を副題として那覇市久米で「世界宣教沖縄大会」が開催されました。この大会は、「この沖縄を軍事基地ではなく、宣教の基地にしてください」と祈り続けてきた沖縄のクリスチャンにとって画期的なことでした。この大会は、日本同盟基督教団をはじめ多くの教団、教会、牧師、宣教師、伝道師、信徒の献身的な協力によって開催されました。
17. 超教派の最初の聖書学校
1974年、沖縄の福音的な牧師たちの祈りと協力によって沖縄信徒聖書学校(OLBS)が設立されました。沖縄にはそれ以前にも教派による聖書学校はありましたが、超教派の聖書学校は初めてで、多くの時間をかけて準備が進められました。
将来の超教派協力の根幹にもなるようにとの祈りを込めて、理事会が組織され、すべての運営は理事会が責任を持ち、理事会のもとに教授会が結成され、カリキュラムの編成や授業の担当者の選任、テキストの選定等は理事会と教授会とで協議され、決定されることとなりました。
現在、OLBSは毎週火、金の19:30から21:30まで行われ、那覇バプテスト教会を中心に担当教授の教会で行われています。2年コースの夜学です。
18. 超教派の聖書神学校
1980年に沖縄聖書神学校が設立されました。毎週月曜日から金曜日までの午前中(3時間)の4年コースです。
特色として「聖別断食修養会」で10日間の訓練を受けます。また、1カ月でローマ、ギリシャ、イスラエル、トルコ、エジプト、ヨルダンを踏査研修します。
19. 沖縄唯一のキリスト教大学誕生
1957年4月、仲里朝章牧師(日本基督教団首里教会)を中心に、首里教会を仮校舎として、超教派による沖縄キリスト教大学は、初代理事長兼学長に仲里牧師を迎えて4人の学生と4人の教授で誕生することができました。
創立の理由は「・・・複雑にして矛盾の多い現在の沖縄を国際的平和の島にするには是非ともキリスト教文化が基礎をなさねばならぬことは世界史が教えている真理であります。それでわれらは新しい沖縄の建設に直面してキリスト教の精神を身につけた人材の養成が緊要であることを確信してこの学校の設立をしました」とあります。
20. 沖縄の宗教・土俗と照屋寛範牧師
照屋牧師は、沖縄には沖縄の伝道法ありとの信念から、祖先崇拝の根強い沖縄で土俗を研究し、先祖たちが行った土俗宗教の意味を解明し、先祖が持っていた神概念や罪意識、裁きや救いについて調査、研究し、どのような伝道が効果的であるかを伝えています。
また、祖先崇拝と結びついて多くの人の心を迷信で支配しているユタ信仰と対決して、キリストの福音による真の勝利の道を力強く宣教しました。
21. 戦後、沖縄で行われた超教派の伝道会・大会等
1985年10月には、韓国のパウロ・チョー・ヨンギ博士を迎えて「沖縄10万人救霊クリスチャン宣教大会」が沖縄県労働福祉会館(現・東町会館)で行われ、弟子化の拡大、教会成長ビジョンの拡大、宣教拠点の拡大という3つの柱の拡大について力強いメッセージが語られました。
22. ゴスペルソングの定着
1982年には、「ミュージックキャンプ」(小坂忠牧師がリード)等が行われ、沖縄の教会でもゴスペルソングが定着し始めました。沖縄では琉球語賛美も会衆に親しまれ、講演会、大会等でも全会衆が高らかに琉球語で主を賛美しました。これも沖縄ならではの光景であり、福音の土着化の1つの証しでもあります。
23. 世界食糧デー
世界で飢えや栄養不足による病気のために、1日に4万人、1年間で1500万人が餓死している状態を国連も重く受け止め、1981年に毎年10月16日を「世界食糧デー」に制定し、飢餓に関するビデオ等を用い、啓発運動を展開しています。世界の4分の1の先進国の国々が全穀物生産量の約半分を消費しています。しかも、その60パーセントは家畜の飼料に使われており、それが世界の飢餓の大きな原因でもあるといわれています。
地球家族といわれる今日、世界が飢餓に心からの関心を持ち、隣人愛を証しする必要があり、今も各地域で行われております。
24. ワールド・ビジョン・ジャパン
この働きは、アメリカのボブ・ピアス博士によって設立され、韓国から始まって世界に広がりました。今では国連経済社会理事会に公認・登録され、国際的な民間援助機関(NGO)として、キリスト教精神に基づいて100以上の国々で活動を展開しています。ワールド・ビジョンの宣教のアプローチは、個人と社会を結びつける積極的な働きです。
この働きが日本で本格的に始められることになり、1987年にワールド・ビジョン・ジャパンが設立され、独自の理事会(峯野龍弘理事長[当時])を持つ組織となり、沖縄でも本格的に始められ、教会、企業、マスコミの協力を得て第1回「‘95ファミン沖縄」として始まり、年々その輪は広がりつつあります。
25. オリブ山病院に次ぐキリスト教信仰に立つ病院の設立
オリブ山病院に次いで、キリスト教信仰に立つサマリヤ人病院、若松病院等の病院が続いて建てられ、沖縄の各地域の病める人々にキリストによる癒やしと奇跡的な恵みが与えられ、人々は大いに喜び、感動しました。
26. ‘96おきなわ聖書展
「ベッテルハイム来沖150年 ‘96おきなわ聖書展」が5月8日から13日まで、デパート・リウボウ6階で開催され、6千人余の入場者に感銘を与えました。
27. 沖縄宣教研究所の開所
沖縄宣教研究所(所長:饒平名長秀牧師)が超教派の協力によって開設され、沖縄の歴史、文化、差別、人権、基地、平和、天皇制等の研究を深めて、沖縄の教会、社会に役立つことを目指しています。
その他、沖縄の教会は、超教派の協力を得て多くの活動を続けています。その幾つかを簡単に説明します。
28. 沖縄福音浸透運動
この運動は、沖縄だけで1979年に行われたもので、一般には「私は見つけた」として新聞、ラジオ、テレビ等のマスメディアを用いて、1週間の予告と本告「聖書にある豊かな人生」を知らせ、10台の電話器を用いて相手と語り、そのメモを用いて別のボランティアが近くの教会の牧師に電話して希望する教会に訪問して伝道用のパンフレット等各種のものを配って、その教会の伝道を助けるように奉仕しました。
この運動は、特別な伝道会や講演会もなく、ボランティアの一人一人が「四つの法則」を用いる個人伝道を主軸として行うので、救霊の実践を体験する信徒が増え、同時に救霊の実績も上がるという一石二鳥の成果がありましたが、全国には拡大されませんでした。
29. ビリー・グラハム沖縄国際大会
本大会は1980年に20世紀の大伝道者ビリー・グラハム博士を迎えて、初めて沖縄で2晩にわたって、沖縄市の会場で行われ、延べ3万人余が集まるという沖縄伝道史上最大の画期的大会となりました。
同博士の知名度は高く、また基地の街コザ市で行われたこともあり、多くの英語教会のメンバーや、その他多くの外国人も参加し、会場のグラウンドは人々で埋め尽くされました。野外ステージで歌う500人の聖歌隊、べバリー・シェー氏の天に響くソロ、グラハム博士の迫力に満ちたメッセージ等一つ一つのプログラムが多くの会衆に感動を与え、沖縄に福音の季節の到来を感じさせる大会でした。
30. 全沖縄クリスチャン国際大会
その後、沖縄には1984年11月に、レイトン・フォード博士を迎えて「全沖縄クリスチャン国際大会」が浦添市民会館で行われ、大きな祝福とリバイバルのチャレンジを受けました。
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