終戦から71年がたった。日本各地で大規模な空襲に見舞われ、多くの犠牲者を生んだ。沖縄県では「血で血を洗う」と表現されるほど、悲惨な地上戦が繰り広げられた。多くの戦争孤児を生んだこの戦いを語る人が年々少なくなってきている中、壮絶な人生の中でキリストに光を見いだし、牧師になった女性が現在も沖縄に住んでいる。日本聖公会沖縄教区司祭、石原絹子牧師だ。石原牧師は、「沖縄戦を知る語り部として、何か形に残しておきたい」と昨年、『沖縄戦を語り継ぐ―地獄から魂の叫び―』を出版した。石原牧師に話を聞いた。
石原牧師は1937年6月11日、現在の沖縄県南城市に生まれる。「この生年月日も定かではない」。戦争で家も戸籍も書類も、全てが焼失してしまったため、自分の記憶と生き残った周りの人の証言から、この日ではないか・・・といったことしか分からないのだという。
1945年4月1日、石原牧師が7歳の時、ついに米軍が沖縄本島に上陸。約1500隻の艦隊、約55万人の圧倒的な兵力をもって陸地戦に臨んだ。早朝から北谷、嘉手納方面をめがけた艦艇からの艦砲射撃、ロケット弾十数万発に加え、空からB29による爆弾の雨を降らせた。
「本当に雨のように爆弾が降ってきた。いつ死んでもおかしくないと思いながら、まさに『死にもの狂い』で逃げた」と当時の惨状を淡々と話す。これに対し「沖縄守備軍」からの反撃は一発もなく、米軍に「ピクニックのようだ」と言わせたほど、ほぼ無抵抗の状態で上陸を許してしまった。上陸したその日に米軍は、日本軍が誇った東洋一の2つの飛行場をあっという間に占拠。これから、約3カ月にわたる沖縄の地獄が始まった。
決戦の地を沖縄南部に見据えていた日本軍は、米軍の攻撃から命からがら逃れてきた沖縄の人々から食べ物を奪い、水を奪い、隠れ場所であった防空壕まで奪った。さらには、次世代の日本をつくり上げる幼い子どもたちを戦争の邪魔になるという理由で、次々と情け容赦なく殺害。「国民を守ってくれるはずの『皇軍』は名ばかり。人間が人間でいられなくなる悲惨極まりない状態だった」と石原牧師は言う。
とうとう石原牧師一家が身を寄せていた壕にも「皇軍」がやってきた。「子どもたちを殺すか、さもなければここから出ていけ!」と叫び、銃口を突き付けた。母親は「何より大事な子どもたちの命を奪われて、どうして生きながらえるだろうか。死ぬならみんな一緒だよ」と言い、わずかな食糧と壕を軍に渡した。
米軍の攻撃におびえながら、一家は摩文仁を目指した。恐怖で足がガクガク震えた。それでも7歳の少女だった石原牧師は、3歳の妹の手をしっかりと握り、1歳の妹を背中におぶって歩を進めた。
同様に追い詰められた避難民、残存兵は約10万人。南へ南へと向かう人々で、夜中の道路はひしめき合っていた。前方の海には、敵艦隊が真っ黒な異様な姿で立ちはだかり、後方には戦車の近づく音が轟いている。頭上からは、弾丸が雨のように降ってくる・・・。地獄と絶望を目の前に、石原牧師は母親に「私たち死ぬのかな」と震えながら話し掛けると、黙ってうなずく横顔が見えた。死の恐怖が体中を駆け巡った瞬間だった。
そんな中、米軍からの容赦ない攻撃を前になすすべもなく、次々と人々が倒れていった。どのくらいの時間がたったか定かではないが、ふと気が付くと、一緒にいたはずの母と兄の姿が見えなくなっていた。妹の手をしっかりと握りながら、必死で2人の姿を探した。
「お母さん」と叫んでみたが、返事はない。死体の山々を、心の中で「ごめんなさい」と言いつつ、踏みつけながら、必死で捜した。どれくらい捜したか覚えはないが、やっと見つけた2人の体はすっかり冷たくなり、息絶えていた。無残な姿になった遺体の山は、2倍にも3倍にも膨れ上がった。「この世の地獄とは、このこと」と、石原牧師は言葉を振り絞った。
著書の中で、この日のことを「これが、日本軍首脳が考え出した帝国本土を守らんがための沖縄県民を巻き込んだ『時間を稼ぐ』持久戦の結末だった」と述べている。石原牧師は、「首里城が堕(お)ちた時点で、日本は戦争をやめるべきだった。あの時に降伏していれば、沖縄はそれ以上の痛みを生まないで済んだ。さらに言えば、広島、長崎への原爆投下もなかった。本土決戦を防ぐための捨て石になった沖縄の痛みは、あまりにも大きすぎた」とインタビューに答えた。
残された2人の妹たちと石原牧師は、ただただ呆然と立ち尽くした。しかし、ふとわれに返ると、背中におぶっていた1歳の妹が動かなくなっていたことに気付いた。「逃げるのに必死で、水も母乳も何十時間も飲んでいなかった。『ごめんね』と泣き叫びながら、体のあちこちからわいてくるウジ虫を払っていました」と話した。あっという間に骨だけになってしまった妹を前に、3歳の妹と抱き合って震えながら、数日を過ごした。
3歳の妹にも異変が起きた。胸に破片が刺さっていたのだ。「お姉ちゃん、お水をちょうだい」とせがまれたが、そこは死者たちの墓場のど真ん中。唇を湿らす一滴の水もなかった。ただただ頭をなでて「ごめんね」と言うしかなかった。涙を流しながら、石原牧師の腕の中で静かに息を引き取った妹。「お母さん、妹たちを守れなくて、ごめんね」と絶叫した。
家族を失って、死ぬことばかりを考えていた。「死ぬことは、全然怖くなかった。早くお母さんやお兄さん、妹のいるところに行きたかった」と話す。今度こそ自分の番だと、先に召された2人の妹の間で小さくなって横になると、いつの間にか気を失っていた。
どのくらいの時間がたったのか分からないが、気が付くと、あの「鬼畜米英」と言われた米兵が石原牧師を抱きかかえ、助けてくれていた。目を開けると、ぼんやりと米兵の胸元にキラキラと光る十字架が目に入った。「このきれいなものは何かな」と不思議に思った。後に、この十字架が石原牧師を支え、生きる力となるとは、この時は思いもよらなかった。
米軍の病院に運ばれると、温かいミルクを飲ませてくれた。そこには、たくさんの捕虜となった軍人、避難民たちがいた。幾つか張ってある米軍のテントの中で石原牧師は、いつも少しだけ入り口が開いている小さなテントが気になっていた。
恐る恐るテントの入り口をのぞいてみると、優しそうな老人が片言の日本語で手招きをしてくれた。少しずつ近寄ると、何カ月もお風呂に入ることがなかった石原牧師の顔や体をタオルできれいに拭いてくれたという。
そして、ミルクを飲ませてくれると「イエス様はあなたのような子どもが大好き。イエス様も汚い馬小屋で生まれたんだよ。だから、何も怖がることはない。戦争は怖かったね。でも、イエス様がこれからもあなたのことを守ってくださるよ。また明日もおいで」と言うので、その次の日も、また次の日もテントを訪れた。
4、5日続けていたが、その後、テントはなくなっていた。
米軍に救助されたことを知った母方の祖母が、石原牧師のもとにやってきた。「どうして、みんな死ななければならなかったの」と泣き叫ぶと、祖母は優しく頭をなで「みんな戦争が悪い。でも、どんなにつらくても、これからは生きて、平和のためにお手伝いできる人間になるんだよ」と話した。
沖縄防衛軍として、沖縄のどこかで父が戦死したことも知った。家族全員が亡くなり「独りぼっち」になってしまった石原牧師だが、戦後、親類を転々としながら大学を卒業。高校の教諭となった。
学生時代にも、不思議とその通学路に教会があるのを見つけ、時折立ち寄っていたという。結婚後は、敬虔なクリスチャンだった義母に導かれるように教会へ通い、受洗。1992年には、当時住んでいた熊本県で、日本聖公会九州地区初の女性執事として按手を受けた。2003年に沖縄に戻り、沖縄県平和祈念資料館のボランティア養成講座を受講。現在も語り部として、修学旅行生や観光客を相手に、また地元の学校などで沖縄戦の体験を語り継いでいる。
2008年には、沖縄初の女性司祭となった。「あの死体の山から、気を失った私を救ってくれたことは奇跡だったと思う。神様が私を助けてくださったのですね。本当につらい経験をしましたが、こうして神様に導かれたことに感謝をしています」と話した。
「沖縄を離れていたこともあったが、沖縄のことは片時も忘れたことはなかった。あの悲惨な戦争を再び繰り返してはならない。戦後なお米軍支配の重圧に耐えつつも願ってきたのは、恒久平和を求める沖縄の心『命(ぬち)どぅ宝』。この心を全ての人々と分かり合える世界が来ることを願っている」と、インタビューを締めくくった。