今日4月9日から聖週間(受難週)が始まる。3月1日、灰の水曜日から始まったレント(四旬節、受難節)だが、4月16日のイースターを前に、レント最後の週をこれから過ごすことになる。
レントの期間、カトリック教会では、聖堂にある告解室などで、洗礼後に犯した自分の罪を司祭に告白し、司祭が「わたしは、父と子と聖霊のみ名によって、あなたの罪をゆるします」と赦(ゆる)しの宣言をする「ゆるしの秘跡」を受ける。また、聖堂に掲げられた14枚、あるいは復活の場面を加えた15枚の「十字架の道行き」の絵や彫刻の前を巡ってキリストの受難を黙想する時を持つ。
特に受難週の1週間は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4福音書にある記述に従って、イエスがエルサレムに入城して十字架につけられるまでを心に刻む時だ。曜日ごとに簡単にその出来事をまとめてみた(主にマルコの箇所を記し、出来事は新共同訳の小見出しにならった)。
日曜日 エルサレムに迎えられる(11:1~11)
月曜日 いちじくの木を呪(のろ)う、神殿から商人を追い出す(11:12~26)
火曜日 権威についての問答等(11:27~13:37)
水曜日 ベタニアで香油を注がれる等(14:1~11)
木曜日 主の晩餐、弟子の足を洗う等(14:12~26、ヨハネ13:1~20)
金曜日 十字架の死等(14:27~15:47)
土曜日
日曜日 復活する等(16章)
今日は「パームサンデー」(枝の主日、しゅろの主日)にあたる。イエスが十字架につくためにエルサレムに子ろばに乗って入城したとき、群衆が手に手になつめやしの枝を持ってイエスを歓迎した次の聖書箇所にちなんでいる。
祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」。イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。
(ヨハネ12:12~14)
プロテスタント教会でも教会暦に従って礼拝を持つところもあるが、特にカトリックではこの日曜日、開祭の時は皆、会堂の外に出てソテツなどの枝(教会で準備されたもの)を持って集まり、司祭が灌水棒で会衆に散水(聖水を振りかける)して祝福してから、入城の福音の朗読の中、入堂し、イエスがエルサレムに入城した出来事を記念する(雨の場合は聖堂の中で行われる)。または、聖堂と離れたところから賛美しながら行列する形をとることもある。4世紀末、オリーブ山から聖墳墓教会まで枝を持って行列する習慣が、後に典礼として取り入れられたものだ。
そして、ミサの第1部である「ことばの典礼」では、第1朗読で旧約聖書からイザヤ書の「主のしもべの歌」、第2朗読ではパウロの手紙からフィリピ2章の「キリスト賛歌」が読まれるが、福音の朗読は、司祭と第1朗読者、第2朗読者、そして会衆一同がマタイ27章11~54節のキリストの受難の箇所を交互に読み交わす朗読劇の形をとる。今年はA年なのでマタイで、B年はマルコ、C年はルカ、そして聖金曜日にはヨハネによる受難の箇所が同じように朗読劇の形で読まれる。バッハの「マタイ受難曲」などで、福音書記者、イエス、群衆、他の登場人物が歌い交わすのは、この聖週間の朗読のやり方がもとになっているのだ。
聖書に出てくる「なつめやし」は、北アフリカや中東で栽培されており、その果実は「デーツ」と呼ばれる主要な食品。新共同訳の前の口語訳や文語訳、また新改訳でも「しゅろ」と訳されていたのは、日本に生育するヤシ科の植物だったからだが、扇状に熊手のように広がる葉の形状なので、むしろ葉の形がなつめやしと似ているソテツが日本では使われることが多い。
聖書で「なつめやし」は勝利や祝福、喜びや希望のシンボルとして登場する。出エジプトで葦の海を渡り終えてエリムというオアシスに着くと、そこには70本のなつめやしがあったのは象徴的だ(出エジプト15:27)。
この日曜日に祝福された枝は、ミサ後、それぞれが家に持ち帰って飾り、1年間、それを見ながら過ごす。そして、翌年のレント前にまた、灰の水曜日のためにそれを教会に持ってきて、焼いて灰にするのだ。
この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」
(ヨハネの黙示録7:9-10)