「どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい」(ルカ10:5)
英語の home(ホーム)という言葉の語源は、「暖炉のあるところ」という意味があるという話を聞いたことがあります。暖炉で薪(まき)を燃やし、炎を見つめていると心が落ち着いてくるような気持ちです。
米国で研修中にホームステイしていた家庭のご夫婦は、結婚記念日には2人で暖炉の前に座り、コーヒーを飲みながら語り合うと話されていました。暖炉の前では気持ちがリラックスできるし、会話も盛り上がると話されていたのがとても印象的でした。
先日、和尚さんとお話ししていましたら、仏教には「炉辺談話(ろへんだんわ)」という言葉があると教えてくださいました。囲炉裏(いろり)を囲みながら会話していると、師弟の区別なく、気兼ねなく話せるということでした。
私の幼い日の記憶の中に、母方の祖母の家を訪ねた思い出があります。寒い冬の日に祖母の家を訪ねると、囲炉裏で火を燃やしながら、祖母が待っていてくれました。「外は寒かっただろう。火にあたって暖まりなさい」と言いながら迎えてくれました。天井から吊るされた自在鉤(かぎ)に鍋がかかっていて煮えていました。
昔は囲炉裏の炎が照明の代わりもしていたようです。そして、火種を絶やさないように燃えている炭に上手に灰をかぶせたとかいう話を祖母がしていたのを覚えています。
テクノロジーが発達し、生活は便利になっていくのに、人と人の結びつきが弱まり、孤独に悩み、生きていくのに苦しんでいる人々が増えています。「エコロジー志向が人間性の回復になる」ということを聞いたことがあります。もう1度、自然界のリズムに合わせて生きていくことで、人としての尊厳の回復になるかもしれないと思います。
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」 (箴言17:1)
暖炉を囲んで、共に食事をし、語り合うことのできるホームが存在するなら、心が癒やされるのではないかと思います。人は自分のうちをそのままに受け入れてもらえたら、これにまさる喜びはないといわれます。
米国で研修中、異国の地ということで不安な気持ちになることもあったのですが、教会の交わりは私にとってまるでホームにいるような雰囲気を体感できるところでした。その研修から30数年以上たっていますが、いまだに変わらない祈りの支援が続いています。最近届いた信仰の友人の祈りのメッセージです。
「神の愛と配慮があなたを取り巻きますように私は祈ります。神の癒やしの御手があなたに差し伸べられ、あなたの思いを希望と励ましで満たしてくださいますように私は祈ります。あなた自身とあなたの周りの事柄を通して、あなたが信じられないような神のご臨在を感じられますように私は祈ります。神様があなたを導いてくださいますように、あなたがしなければならない全てのことを導いてくださいますように願います。東と西が離れているように、あなたの敵が放られ、あなたが解放されますように祈ります。神はあなたを愛してくださり、あなたを支えてくださることを覚えてください」
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)
イエス様の十字架を目撃した弟子たちは失意の中にありました。そのうちの2人はエマオの村に旅をしていました。道中、復活の主が同行してくださり、聖書の解き明かしをしてくださいます。その夜、食事の最中、やっと目が開かれ、復活の主だと気付きます。彼らは聖書の解き明かしを受けながら、心が燃えていたことを思い起こします。(ルカ24:13~32)
このエマオ途上の出来事は、例外的なことではないと思います。今も、キリストは私たちのそばにいてくださいます。ただ目が閉ざされているために気付かないだけだと思います。耳を澄まして、キリストのノックに気付き、心の扉を受け入れるなら、キリストを交えた食事が始まり、温かいホーム、平安のある家庭が始まるのではないかと思います。
◇