使徒ヨハネは、キリスト教への大迫害が迫ろうとしている中で愛の使徒として働き、ヨハネ書簡、黙示録の著者として信仰者を励まし、多くの魂を救いに導いています。そのヨハネは晩年には会う人をつかまえて、「互いに愛し合いなさい」と勧めていたといわれます。私たちが最後のメッセージとして伝えられるのは「神の愛」に生き、愛を分かち合うことではないかと思います。
私は神学校を卒業してから、牧師、伝道師として25年、ブライダルミニストリーの自営業者として10年、キリスト教冠婚葬祭の会社法人の代表として10年務めてきました。何度も難破を繰り返し、やっと漂着したという思いです。
自分の歩みを振り返ってみると、本当に私には経営の能力がなかったということを実感します。主なる神様のおかげで折にかなって助けてくださる人々に出会うことができたというのは大きな恵みであり、感謝あるのみです。
牧師として生きる中で祈りの力を体験し、神が私たちの中に働いてくださる恵みの奇跡を何度も目撃しました。ブライダルミニストリーを通して多くのカップルとお目にかかり、チャペルカウンセリングを経験して私自身が教えられた恵みは数え切れないほどあります。
経営者としては無能な者でありましたが、経営者の団体に所属し、普段ではお目にかかることもできないような方々とお会いする機会が与えられ、その本音を知ることができたのは恵みでした。ほとんどの経営者の方が孤独と闘い、日々の経営決断の中で神様の慰めと励ましを求めておられることが分かりました。
米国の信仰の友人がSNSで伝えてきたメッセージがあります。「あなたの役割は周りの人々にスマイルを表すことです。他の人を励まし、キリストの愛を分かち合いなさい」ということです。
経済的には後に続く人々に模範となることはできず、失敗者として多くの人々にご迷惑をかけている情けないモデルケースです。しかし、私にできることは、聖書の言葉を通して周りの人々を励ますことだと思います。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい」(Ⅱテモテ4:2~5)
旧約聖書に登場するダビデ王は、波乱万丈の生涯を送っています。権勢を誇る時期もありますが、政敵に追われて死海のほとりを逃亡しなければならないこともありました。順調な時は取り巻きも多く、ちやほやされますが、追われる立場になりますと、ほとんどの人は顧みなくなります。ダビデはこの時の心境を「こわれた器」(詩篇31:12)と表現しています。
これは数十年前の話ですが、ある会社の経営者の奥さんがクリスチャンで教会に通っておられました。しかし、夫の会社の経営が思わしくなくて、とても教会に通う時間も作れないときがありました。
そういう時に教会の牧師が訪ねてきて、「献金が未納になっていますよ」と言って、献金袋を渡したそうです。牧師はその奥さんの事情を全く知らず、会計係から預かったものを渡しただけだったようです。しかし、その奥さんは怒り心頭で、この大変な時にひと言「祈ります」とか言ってくれればいいのに、どうして事務的な処理しかできないのかとこぼしておられました。普段では何でもないことでも、状況によってはショックになってしまうこともあります。
私の友人は「明るく振る舞いなさい」とアドバイスしてくれますが、事業が思うようにいかない時はどうしても気持ちが沈んでいきます。しかし、主なる神はどんな時にも私たちを見放さず、その愛は離れることはありません。この神の愛を思い起こすなら、どんな時でも喜んでいることができると思います。
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。『あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。』と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ8:35~37)
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