「わたしのことばを実現しようと、わたしは見張っているからだ」(エレミヤ書1:12)
試練の中を歩くときは、目の前の道が山どころか絶壁に見え、腰が引けて前に進めなくなることもあります。そういう時に聖書を開いても、文字をなぞるばかりでなかなか心に届かないことがあります。しかし、主なる神は自分の発信した言葉がちゃんと働くかどうか見張っていると仰せられます。自分の抱える重荷に負けることなく、全てを主の御手に委ねることが求められています。
これは米国の話ですが、1人の経営者が経営に行き詰まり、何度も祈りました。しかし、なかなか道が開けず、神様はどうして自分の祈りに答えてくださらないのか不安に陥りました。そして、教会の牧師を訪ね、自分の疑問と不安を訴えました。その話を牧師は黙って聞いていました。
そして、牧師はその相談者を教会の花園に連れていきました。そこはちょうどサナギが孵化(ふか)するところでした。サナギは孵化するときにもがき苦しむように見えます。しかし、もがく中で羽の隅々まで栄養分が届き、羽を広げて舞うことができるのです。もし誰かがその孵化を手助けすると、完全なチョウになれないそうです。
このチョウの様子を見せながら、牧師は相談者に語り掛けました。「あなたが祈りながら苦しんでいるのはこの孵化と同じです。その苦しみのおかげであなたのたましいが清められ、聖霊が注がれているのです。神様はあなたを見放しておられるのではなく、あなたが聖化されるのを見守っていらっしゃいます。忍耐して待ち望むなら、必ず道が開かれます。どうぞ信じて祈り続けてください」と語ったそうです。
苦難が続くときに、なぜこのような試練が自分にくるのかと思いますが、私たちの聖化のためであることが分かりますと納得できます。
私が米国の教会に研修に行ったときに出会った1人の婦人は、とても優しい雰囲気で周りの方々をいつも励ましている素晴らしい働きをしていました。しかし、私には想像もつかない暗黒の世界をキリストの導きで脱出した経験を持っていらっしゃることを信仰の証しで語ってくださいました。
この方の幼少期は悲惨なものでした。周りに力になってくれる人はほとんどいない状態でした。精神的虐待、肉体的虐待の被害者でありました。幼少期は見捨てられた状態で、この子は何もできない、何の役にも立たないとののしられていました。そして、8歳の時に母親を亡くし、どこにも慰めを受けるところはなくなります。
思春期には、不健全な交友関係、アルコールや薬物との関わりがあり、全く見放されたような人生を送っていました。しかし、神の驚くべき救いの恵みによって奇跡が起きました。キリストと出会うことにより、人生が一変しました。
少女時代には、孤独で誰にも構ってもらえない寂しい状態だったのに、神の恵みにより素晴らしい家庭が与えられました。彼女はとても威厳のある素晴らしい夫と出会いますが、この夫は彼女をより良き女性に成長させてくれる人でした。また、教会の家族も彼女を包み込んでくれました。
彼女はキリストと出会ってから、「私は自分を強めてくれて、力を下さるキリストのおかげで何でもできます」という確信を与えられていました。自分の功績ではなく、偉大なる神の恵みにより導かれました。1人の被害者が立ち直り、勝利者となるように導いてくださいました。この神に感謝し、神の愛に応える生き方をしていくように決意しています。
「自分をとりまく環境がどんなにひどくても、神はそれよりも大きな存在です。神はあなたのうちにいて、愛を表そうとしておられます」と周りの人々を励まし続けています。
私たちの周りにはさまざまな声が飛び交っています。ネガティブな声、諦めさせようとする誘惑の声、批判し責める声・・・。しかし、私たちが聞き分けなければならないのは、静かな細い声、私たちを温かく包み込む愛の言葉です。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)
「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」(ヨシュア記1:9)
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