イエス様の例え話に、タラントを預けられたしもべたちの話があります。この例え話に、私たちの人生が凝縮されているように思います。
「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと精算をした」(マタイ25:14~19)
この1タラントは、1人の労働者が10年間働いて得ることのできる金額といわれます。今日の貨幣価値に換算すると、6千万円になるという人もいます。もう少し高くて1億円という見方もできます。
この話のポイントは、もうけた人よりも、預かった1タラントを掘って隠していた人にあります。「なぜ、預かったお金を運用しなかったのか、せめて銀行に預けておけば利息がついたのに」と、主人に怒られてしまいます。神様から委ねられた才能や賜物を十分に生かすことなく、埋もれさせてしまうような生き方をしてはいけないと、私は理解していました。しかし、この話は経営者としての生き方にも通ずるところがあるかと思います。
5タラント預かった人は、10タラントに増やし、2タラント預かった人は4タラントに増やします。このことを主人はとても評価し、預かったものももうけたものも全部彼らのものとして与えられています。
ところが、1タラント預かった者は地に埋めていたため、その怠惰を叱責され、その1タラントを取り上げられ、10タラント持つ者に与えられます。そして雇い主に追い出されてしまうのです。
もし、この1タラント預けられた者が、商売をして、うまく時流に乗れず、環境も悪かったために、損失金を出したとしたら、この主人はどのような対応をしたのだろうかと考えさせられます。きっとひどい処罰を受けたかもしれないと想像してしまいます。
しかし、聖書の中に出てくる例え話では異なる結末になっています。100匹の羊を持っていた羊飼いは、1匹がいなくなると、99匹を置いて、1匹を捜しに行きます。(マタイ18:12、13)
また、放蕩(ほうとう)息子の例え話では、父親から生前分与された息子が、一旗揚げて故郷に錦を飾ろうと思って出て行くのですが、失敗し、落ちぶれて帰ってきます。父親はこの息子を歓迎し、宴を開きます。この様子を見た兄が怒りますが、この兄に父親は語るのです。「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」(ルカ15:32)
この2つの例え話で示されていることは、果敢に挑戦し、失敗したのであれば、主人は寛容に受け入れてくれたのではないかということです。「この人生において大切なことは、何をしたかではなく、何をしようとしたかということです」と語った人がいます。
私たちの人生は、決して単純なものではないと思います。5タラントを10タラントに増やすような順調な時もあれば、時流が読み切れず、経営環境も悪化し、1タラントを0タラントにしてしまうような失敗をしてしまうこともあります。しかし、聖書の世界では経営破綻しても絶望ではないということが示されています。どんな状態であっても、神に選ばれ、愛されている者として変わらない存在であり、この世に送り出された使命も役割も残っています。
私の信仰の友人はSNSで「どんな時にも全てを感謝し、周りの人々にスマイルを表し、キリストにある愛を分かち合うことを忘れてはいけません。同じような境遇にある人々を慰める役割があります。あなたは神に愛されている者であり、神はあなたのことをお忘れになったことはないのです」というメッセージを送ってきました。
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル12:11)
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