それは、僕が中学か高校生の頃だったと思います。他界した父が、僕にこんなことを言ったのを思い出します。「憲は障碍(しょうがい)者の見本となるような生き方をしていくんだ」。その言葉を聞いたとき、僕は「何を言ってるの?」、そう思った記憶があります。
しかし、父の顔は真面目で、まさしく真剣に語る教育者の顔に見えていたことを覚えています。教育者ではない教育者としての顔。恐ろしいような父の権力という名のオーラが漂い、僕は一瞬にして「何かが起こる。怖い」と、何か嫌な気配を感じ取った瞬間でもありました。
父は、僕が通う学校のPTA会長になり、障碍児教育に全力を注ぎ始めていました。というより「ぜひ○○の役員になってください。有田さんしかやれる人がいないんです」などと言われると、おだてに弱いのか、父は学校のPTAや障碍児者父母の会、幾つもある障碍者関連団体の役員や代表、会長などを簡単に引き受けていたのです。
地元の福祉団体や福祉行政をはじめ、東京都や全国の福祉業界で、いつしか父は有名になってしまい「有田さん、有田さん」とあちらこちらから声がかかり、忙しくなってしまいました。
障碍者福祉全般にわたって活動していた父は、夜遅くまで会議や打ち合わせなどで飛び回る毎日になり、「主夫」の父が、家に僕と弟を留守番させて、いつ帰って来るのかも分からない生活でした。
その当時、わが家の夕食は4時か5時ごろでした。そんな早い時間だったのは、福祉活動に出掛ける父の都合にありました。父は、僕と弟が帰って来る頃にいったん家に戻って来ました。
そして、おやつに紅茶とクッキーやせんべいを僕に食べさせながら、父は料理をし、1時間もしないうちに今度は「ご飯だよ」と夕食が出てきます。僕と弟におやつと早めの夕食を食べさせ、しばらくすると「じゃあ行ってきます。留守番お願いね」と、毎日のように打ち合わせや会議などに出掛けていくのです。
僕の住んでいた町内会は、昔ながらのご近所付き合いがあり、どの家庭も温かく、地域全体が家族のような雰囲気でした。特に隣の家のご家庭とは仲が良く、親密な関係を築いていて、互いに家を行き来し合う関わりがありました。
弟は、幼い頃から毎日「おばあちゃん。おじいちゃん」と言って隣の家に遊びに行っていました。僕も「憲坊」「憲ちゃん」と呼ばれ、かわいがってもらい、面倒を見てもらっていました。
僕が小学生、中学生、弟が保育園から小学生の時期から、父は僕と弟を家に残し、出掛けていくようになりました。家を空けて出掛けるときには、隣の家に立ち寄り「2人の子を置いて行くのでよろしくお願いします」などと声を掛けて行っていました。
弟は隣の家に行き、家には僕1人になることもありました。幼かった頃、父が出掛ける前になると、僕は子ども用のイスに座らされていました。そして、僕がイスからずり落ちていかないように抑制帯で固定し、テーブルには、コップにストローを差したジュースを置いて準備してもらい、テレビを見ていました。
僕が1人で家にいると、30分おきぐらいに、家の勝手口から隣の家のおじいちゃんとおばあちゃんが僕の様子などを見に来てくれていました。「憲坊、大丈夫かい? ジュースは足りるか? お菓子、食べようか。トイレに行くかい? テレビのチャンネルはこれでいいかい? もう少ししたらお父さん帰って来るからね。待ってようね」と、まるでわが子、わが孫のようにかわいがり、面倒を見てくれました。
やがて弟は小学校の高学年になり、いつしか2人だけで留守番をするようになっていきました。中学、高校生になった僕は、まだ精神的に幼く、幼稚園児か小学生の低学年レベルで、学力や精神面、ものの考え方においても、すでに弟に追い抜かれてしまっている状況でした。本来であれば、弟の面倒を見なければいけない立場の僕が弟に「兄ちゃん、大丈夫だからね」と励まされていました。弟が、僕のことを支えてくれていたのです。
とはいえ、弟もまだ小学生。きっと親に甘えたい盛りだったと思います。そして、思いっきり遊びたい盛りだったのではないでしょうか。
辺りは暗く、いつ帰ってくるのかも分からない父の帰りを待っているのは、とても怖く、不安との戦いだったと思います。僕は怖くて寂しくて泣き続け、それにつられ、弟も泣いていたこともありました。父が「ただいま」と帰ってくるとホッとし、それまで抑えていた寂しさや不安、見えない恐怖や重圧などが一気に爆発したように、2人で大泣きしたこともありました。
子どもの頃は、留守番している1分1秒というものが、計り知れないほどにとても長く感じてしまうものではないでしょうか。特に夜は辺りも暗く、特に長く感じていました。僕は「12時を過ぎるとお化けが出る」と信じていたので、ゆっくりと徐々に時計の針が12時に近づいていくにつれ、一層の恐怖感が湧いていたのです。
そんな中で弟は、幼い僕を支え、僕は立派な弟を支え、お互いに励まし合いながら父の帰りを待っていたことを覚えています。
弟は、家族とは思えない扱いを父からされてしまっていました。それは、僕が障碍を持って生まれてきたからでしょう。弟は幼い頃から「いいか! お前はお兄ちゃんの手や足になって生きていくんだ! だから自分というものを作るな!」と、父から言われ続けていました。それは、単なる教えでも、しつけでもありません。
気が付くと、いつも弟は、どこに行っても僕の後ろに小さく座らされていました。父は弟を決して僕の前には出さなかったのです。両親の故郷に家族で帰った際も、親戚が一同に集まる楽しい席でも、父は弟をいつも僕の一歩後ろの方に座らせ、会話の内容も弟の話題は一切せず、いつも僕が主人公で話題の中心にいました。それは、まるで父は弟という1人の人間を尊重せず、否定してしまっているかのようでした。
活動がない日に、父は、近くの大きな公園や、埼玉県の東松山市にある国営森林公園にドライブによく遊びに連れて行ってくれました。しかし、家族より福祉、家族よりボランティアという考え方が、父には強くあったのでしょう。学校がない土曜日の午後や日曜日、活動のある日には「出掛けるよ。一緒に行こう。行く準備して」と、僕と弟を連れて福祉活動に出掛けていくことも多くありました。また、家で留守番させられることもありました。
それは、お楽しみ会という名の障碍者レクリエーションや障碍者スポーツ大会、時には、難しそうな会議や会合でした。当時小学生だった弟と僕は、一緒にゲームに参加し、会議や会合の集まりでは「つまらないな」と思いながら、部屋の片隅でおとなしく待っていたり、保育コーナーがあるときには、ボランティアのお兄ちゃんやお姉ちゃんたちに遊んでもらっていたことを覚えています。
しばらくして弟は、父からこう言われました。「ボランティアになりなさい」。弟は自ら望み、進んでではなく、ある意味、ほぼ父に強制されてボランティアをさせられていました。僕以外の障碍を持つ方とあまり深く関わりを持ってこなかった弟は、ボランティアで担当した方に苦い経験をさせられてしまいました。もちろん、障碍者の方に悪気があったわけではなく、障碍によって起きる突発的反射というものですが、弟にとっては、その出来事が衝撃的で、今でも大きな1つのトラウマになってしまっているといいます。
そして、弟はこうも話します。「ボランティアはやりたくなかった。もうやりたくない。福祉は嫌だね」と。
いつしか、弟という1人の人間としての尊厳や、大切な自由が奪われていました。弟にとって、来るたび来るたび毎日が地獄のような日々だったと思います。そして、障碍を持つ兄がいるが故に向かって来るさまざまな試練と、1人で戦っていたのだろうと思います。それは、僕にとっても、弟にとっても、思い出したくもない過去だと思います。
弟は、あまり父親から愛情というものを注がれてきませんでした。「俺にも目を向けてほしかった」。そう話します。そして「父さんのことが憎くて恨んでいた。そして、兄ちゃんのことも嫌いになったこともあった」。弟の中で、大きな葛藤が繰り返されていたと思います。
僕は口に出せず、弟に幾度もなく「障碍を持った僕がいて、いろいろ我慢させているね。父さんに甘えられないんだよね。苦しくて、つらくて、嫌な思いをいっぱいさせてしまっているね。そして父さんに厳しくさせられて、ごめん。本当にごめんね」。心の中で弟に謝り続けました。
今は、弟とはとても仲が良く、2人で笑い合い、互いにそれぞれの生き方をエンジョイし、歩み続けています。こうして書かせてもらいながら、当時のいろんなことを思い出します。楽しかったという思い出と、つらく苦しい思い出の記憶が入り交じります。弟には「とてもつらくて、苦しい思いをさせていたな」と感じています。
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