他界した父は、僕が小学4年生から高校2年生までPTAの役員や会長を務めていました。「PTAの仕事って、毎日学校に行くの? 先生みたい。大変なんだね」。普通校や他の養護学校(現代の特別支援学校)などのPTA活動は知りませんが、父はほとんど毎日のように僕が通う学校に行っていたのです。
それこそ、登校している当人の僕よりも学校に行っていたのではないだろうかと言ってしまっても、決して大げさなことではないぐらいでした。
僕はスクールバスまで見送られ、学校へと向かっていきます。学区域などの関係で、何回か通学コース替えをさせられました。通学時間が長く、一番最初に乗り、帰りは一番最後に降りていたコースでは、通学に1時間半から2時間以上もかかっていた時期もありました。
毎日のように学校に来ていた父は、校内にある駐車場に車を止めていました。おそらく父は、僕を送り出した後、急いで5つ離れた弟を送り出し、少し家事をして学校へと向かっていたのでしょう。早い日には、僕が登校すると、わが家の車が学校の駐車場に止めてあったのです。見えるわが家の車に「もう、来てるよ。嫌だな」と思いながら教室に行っていたことを覚えています。
「憲。父さん、PTAのことで学校に行くことがあるけれど、学校ではなるべく会わないようにしような」。それが父の口癖でした。しかし、小学部から高等部まである学校とはいえ、廊下などでばったり会ってしまうこともあります。そして父は時々、校長先生や見学にいらした方々と授業の様子を見に校内や教室を回っていたのです。
そのたびに僕は「なんでいるんだよ!なんで来るんだよ!」。嫌な気持ちが先行し、青春の楽しいはずの学校生活が、いつしか苦しいものと変わり、気が付くと居心地の悪い場所に感じるまでになっていたようにも思います。
学校にいるときは父も僕もお互いに話すこともなく、注意や口出しや指図されるようなことはありませんでした。しかし僕は、気持ちの中で精神的に24時間365日、親に監視されているような感覚になってしまい、友達同士で思い切り遊んだりふざけ合ったりするときも、父の存在が気になり、自分を出せないでいました。
父が学校にいるというだけで「いい子にしていないと、叱られる」と、感情や思いを知らないうちに抑制してしまっている自分がいました。そして、学校に父がいることが嫌でたまらなかったのです。
僕が学校で授業を受けている時間だけではなく、父は下校時間が過ぎても校長先生や先生方、また近隣の普通校との打ち合わせなどで学校に残る日も少なくはありませんでした。そのたびに僕は学校に残り、会議や打ち合わせが終わるのを待っていました。
そして体調が悪くて僕が学校を休んでいるにもかかわらず、「ちょっと行ってくるね」、そう言って学校に出掛けていく父の後ろ姿がありました。それがたとえ、僕が病気で熱や吐き気などもあり、苦しくてつらい最悪な状況でも、父は「テレビ、つけておくよ。寝ててね。行ってきます」。そう言うと、具合の悪い僕を1人家に残し、僕が通う学校へと行ったのです。
そんな後ろ姿を見て、僕は子どもながらに「具合悪くて休むのに行くの。出掛けちゃうの。先生でも仕事でもないのに」。その行動が信じられなかったことを覚えています。
父は、僕をどのように育てたかったのでしょうか。いつだったか、父にこんなことを言われたことがあります。「お前は障碍(しようがい)者の見本になる生き方をしていくんだ」。それはまるで、障碍児教育の教育者が語る言葉のようでした。そしていつしか父は、さまざまな場所へ出掛けて行き、福祉に関わる会合やシンポジウム、講演活動などで全国を飛び回るようになってしまったのです。
シンポジウムや講演会などで父は、障碍児教育の理想論や地域社会の在り方、障碍者の生き方、育て方などの理想論を語っていました。僕を育て上げた経験からの自論のようなことも語っていたのかもしれません。
「自分が言ってることとやっていることが違ってはいけない」。理想論や自論を語っていた父は、僕を自分が思い描く障碍者に育てていたように思います。
僕を理想的な障碍者になるよう育てたかったのと同時に、障碍者福祉の向上と発展に貢献したかったようで、「何かお役に立てることがあれば、うちの子を使ってください。何でもうちの憲にやらせます」などと言い、勝手に父は話を進め、交渉をしていました。
それは福祉機器の開発や障碍児教育、障碍者医療に関わる実験台となり、臨床試験に協力するということでした。もちろん、僕が望んで協力していたわけではなく、全て父が僕の知らないうちに予定を決めていました。
「明日、うちに○○機器の人が来て実験テストをすることになったから。試しているところを撮影するから」とか、「今度、○○センターで臨床実験と介護講習会があるからね。行くよ」。そう言われるのが日常的な感じでした。その他にも福祉雑誌関係のモデルや取材を受けたりもしていたのです。
こうした社会貢献的な活動は父の独断で決め、僕はほぼ強制的にやらされていた感じでした。「次は○○だから」などと毎回言われるたび、僕は「また~。もう嫌だ。やりたくない!」と思い、父が話を持ってくるたびに気持ちの中でイライラしていたことを覚えています。
しかし、父に向かって「嫌だ!やりたくない!」と言えないでいる僕がいました。なぜなら、父が怖かったのです。普段は優しい父でしたが、礼儀やあいさつ、社会的常識、福祉的貢献などになると人が変わったように厳しい父でした。
子どもを教育していく上で常識的な礼儀やあいさつなどを身につけさせるために厳しくしつけていくのであれば話も分かります。もちろん、しつけの面でもそうでしたが、父は福祉に関することになると、しつけ以上に厳しく恐ろしかった面があり、口答えや反対、反発などをしようものならば、激しい剣幕で怒られ叱られていました。
「嫌だ!受けたくない!やりたくない!」などと言うと、父は鋭い目つきで「なんで!何、言ってるんだ!やらなきゃダメ!ちゃんとやりなさい!」と厳しい口調で怒り、まるで僕の意志や気持ちなど無視しているかのように無理やりやらされていました。
言葉が悪いのかもしれませんが、納得できない僕はふてくされながらも、「これ以上、逆らったら殺される」。そんな恐怖を感じてしまうぐらいの父の迫力とオーラを感じました。
学校から家に帰り、しばらくすると、大きなビデオカメラや照明音響機器を持った撮影隊の方や福祉機器メーカーの方などが家に来て、大掛かりな実験が始まり、細かなデータを取っていきます。そして時には「出掛けるよ」と言われ、障碍者福祉センターや医療センターなどまで行き、家ではできない実験をさせられていたのです。
「この子も私も、何でも協力いたします」と言う父の横で僕は、「嫌だな~。やりたくないのに」。心でそう思いながら、さまざまな実験が始まりました。僕は、やがて「何を言ってもダメだ」と諦めてしまっていたのかもしれません。
「憲ちゃん。今度は、こうやって試してみてくれる? この角度にしたら、どんな感じ? これだったら、どうなる?」などと言われるまま、そして指示されるまま、父は僕のご機嫌を取りながら何十通りものパターンを何度も繰り返し行っていたのです。
福祉関連施設や街などで福祉器具などを目にすると、「もしかしてあれって、あの時の実験がこうなって実用化されているのか」。そんな見方をしてしまいます。それはちょっとしたうれしさも多少はあるものの、僕の中では、嫌でつらかった過去の苦い記憶が先に出てしまい、思い出すと何だか気持ちが優れなくなってしまうこともあります。
しかし今思えば、それは単なる序の口でしかなかったのかもしれません。その後、父の行動はさらにエスカレートしていき、ますます僕や弟や母も福祉嫌いの道へと導かれていくことになるのでした。(つづく)
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