15年前のことになると思います。数人の仲間同士で集まり、たわごとのない世間話で盛り上がっていたとき、「私、福祉が大嫌い!」、そう言った仲間のことを思い出すことがあります。それは障碍(しょうがい)者施設でのことでしたが、偶然にもその集まりの中には障碍を持った者は僕だけだったと思います。あまりにも突然の言葉に、その場にいた数人の仲間も衝撃の一言に聞こえたかもしれません。
「福祉が嫌い」と言ったのは、いろんな障碍を持った方と関わりを持っている健常の方です。ついポロリと本音を話してしまったのでしょう。今でも忘れられないような鋭い顔をして、慌てたように「今のことは内緒だからね。絶対、誰にも言ったらダメだからね」、そう言ったのです。その時、僕は「誰にも話すわけないじゃん」と心で思いながら、念を押されたことに苦笑いで答えたような気がします。
そのような言葉が出てくるのには「きっと何かある」と僕は何かを察してしまいました。仲間には言いませんでしたが、その時僕は「いいね。面白い。その話、もっと詳しく聞きたい」、心の中でそう思いました。
仲間は、僕が福祉嫌いなどと知りません。僕も今まで福祉嫌いということを誰にも話したことがありません。「嫌だな~」、内心そう思い、気分も晴れない中、僕は誰にも悟られないように、そして気付かれないように平常心を保ち、ニコニコして福祉活動や障碍者運動に参加していました。
ですからもちろん、僕の前で「福祉が嫌い」と言った仲間は、きっと僕が福祉は最高で大好きだと思っていて、福祉嫌いな障碍者だとは少しも思っていないと思います。
どんな思いで仲間は「福祉が嫌い」と言ったのでしょう。仲間はそれを聞いた僕はきっと驚きビックリしただろうと思ったと思います。しかし、僕はその反対でした。内心では「よくぞ言ってくれた」と思っていました。それは、きっと心のどこかで「この言葉が聞きたかった」という思いがあったのかもしれません。
しかし仲間はそれ以上、語ることができませんでした。そしてそれ以降、「福祉が嫌い」の言葉を封印してしまったように話してくれなくなってしまいました。
介助が必要な重度障碍者で、福祉のサービスを受けながら生活している僕が、カミングアウトのように「福祉が嫌い」というと、ほとんどの方は驚かれてしまうと思います。そして、福祉サービスを提供していただいて生活している僕は、立場上「福祉が嫌い」などとは口が裂けても言えないところでもあり、自分の中で気持ちの葛藤が続いているのです。
そもそも、僕が福祉嫌いになってしまったのには理由があります。それは、幼少時代から青年時代にかけての苦い経験からでした。その苦い経験が大人になった今でも心の奥で引きずっていて忘れたくても忘れることができないでいて、気持ちの整理もつかないまま、今なおトラウマのようになっています。そして、福祉とか障碍者ということを聞くだけでも、なぜだか恐怖感を覚え、精神的に気持ちが重くなり、気分が晴れなくなってしまうこともあるぐらいです。
話は30数年も前にさかのぼります。10数年前に他界した実の父が仕事の営業中に交通事故に遭ってしまい、入院をすることになりました。当時、僕は小学校1、2年生だったと思います。両親は共働きでしたが、父が入院をし「体力的にも俺が家にいて家事をしながら、憲の面倒を見た方がいいかもしれない」と、病室で両親は今後のことを話し合ったそうです。
そんな話をしているとも知らずに、子どもというのはのん気なものです。5つ離れた弟と僕は、骨折して痛がっている父のベッドの上でピョンピョンと楽しく跳ねてはしゃいで遊んでいたそうです。
父が退院して、わが家では、母が働きに出て、父が専業主夫という夫婦逆転の生活が始まりました。父は、養護学校(今の特別支援学校)に通う僕を、朝6時にスクールバスの停留所まで送っていき、しばらくして今度は弟を保育園まで送り、洗濯や掃除などの家事仕事をこなしていたのでしょう。
母はスナックの経営者で、多くの従業員さんを雇い、3軒の店を経営していました。夜はお店で働き、日中は事務仕事やお客さんの接待などで本当に寝る暇もなく、1日中働きずくめで家族のため懸命に働いてくれていました。
そのように忙しく働いてくれていた母ですが、どんなに過酷で疲れていても、弟や僕の保育園や学校行事などには必ず参加してくれました。今思い出しても、言葉にできないくらい感謝でいっぱいです。
そんなふうに書いて終われば「どこにでもあるようなごく普通の幸せな家庭だなぁ」と思われるかもしれません。しかし、この生活によって、やがて僕だけでなく、弟や母までもが福祉嫌いになりました。
専業主夫となった父は、弟と僕を保育園や学校などに送り出した後、家のことや家事仕事は後回しにし、朝から晩まで毎日のように障碍者福祉のボランティア活動に出掛けていってしまうようになります。家庭優先とか仕事優先などという言葉を聞くことがありますが、父にとっては家庭や家族よりボランティアが優先になっていました。そして、それが悲劇の始まりでした。
父は、僕が小学校4年生の時から高校2年生の時まで、PTAの役員や会長をしていました。また周囲からおだて上げられ、全国の障碍児教育改革や福祉改革に力を入れていました。そのため父は、何やかんやと毎日のように僕が通う学校に行っていたのです。父は「いってらっしゃい」と僕を送り出してくれるのですが、学校に行っても父と顔を合わせる状況にあったのです。(つづく)
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