1. 小さな死のススメ
「仕事でミスして、昇進できなかった」「信頼していた人に裏切られた」「大切な人をなくした」
このような「何かを失う体験」は、私たちの心を傷つけます。自分が大切にしているものほど、それを失ったときの喪失感は大きくなります。
私自身、学生時代に全身全霊で打ち込んだにもかかわらず、部活でレギュラーになれなかったとき、心にポッカリ穴が開いたような状態になりました。
上智大学の神父アルフォンス・デーケンさんは「別れは、小さな死だ」と言っていました。
別れだけでなく、失恋や挫折など、自分が何かを失った経験、得られなかった経験は、「小さな死」と呼ぶことができます。
失う経験、失敗や挫折は、誰もが避けたいものです。 しかし、喪失体験は、私たちの宝となる、と聖書は語っています。
2. キリスト者は殉教者
聖書によれば、私たちは殉教者として「死ぬ」と書かれています。
「あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける。エルサレム、ユダ、サマリヤおよび地の果てまで、私の証人(殉教者)となる」(使徒1:8)
実際に、キリスト教の歴史の中で、多くの殉教者が出ています。
わが国でも、豊臣・徳川政権の時や第2次大戦中に、クリスチャンへの迫害がありました。
例えば、豊臣秀吉によるキリシタン弾圧により「日本二十六聖人」の1人であるルドビコ茨木は、若干12歳で殉教しました。
茨木は、みじめな姿で街中を引き回される中、ある有力者から「キリシタンの教えを捨てるなら、そなたを助けよう」と声を掛けられました。
しかし、茨木は「(この世の)つかの間の命と、永遠の命を取り替えることはできない」と助けを断った、ということです。
幸い、現在の日本は、キリスト教への迫害や弾圧はありません。
3. 毎日、殉教
では、私たちがキリストの殉教者となる、とはどういうことでしょうか。
「古い自分」が死ぬ、ということです。
古い自分が死ぬとは、 エゴや自己中心、そして自分の「罪」に日々死ぬ、ということです。
確かに、挫折や喪失は、つらい。しかし、私たちが苦しむとき、キリストも共に苦しまれます。喪失体験により、私たちはキリストと共に、古い自分に死にます。そして、新しい命に生かされるのです。
例えば、仕事から家に帰ったとき、疲れているにもかかわらず、お皿を洗ったり、子どものオムツをかえたりして妻に仕える。
自分自身の時間や労力を他の人のために使う。そのように私たちは、毎日の生活の中でも「小さな死」を体験しているわけです。
「小さな死」は、やがて来る自分自身の死への準備でもあります。同時に「小さな死」は、現在も、家族の関係を変え、学校、職場を変える力を持っているのです。
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