大阪府泉大津市の市営墓地の一角にある日露戦争のロシア兵墓地で23日、「泉大津ロシア兵墓地慰霊祭」が行われ、同市や在大阪ロシア総領事館の関係者など約70人が参列した。日ソ共同宣言による国交回復60周年を記念して、日本ユーラシア協会大阪府連が主催して10年ぶりに行われたもので、大阪ハリストス正教会の司祭が祈祷を行った。
日露戦争(1904~05年)では、全国29カ所の施設に約8万人のロシア兵捕虜が収容されたとされる。大阪でも約3万人のロシア兵が、現在の堺市西区浜寺の海岸に建てられた仮設テントに収容された後、1905年からは高石市高師浜に建設された捕虜収容所に収容され、戦争終結後は全員がロシアに送還された。しかし、病気などにより89人が故国の地を踏むことなく亡くなった。泉大津市の住民が市営墓地の一角に約600平方メートルの土地を提供し、ロシア兵のための墓地が造られた。以来、付近の住民の手によって保全が行われてきたという。
敷き詰められた白石の中に建てられた墓石には、亡くなった89人の氏名がロシア語とカタカナで刻まれ、所属部隊名の他に、兵士の宗教を表す紋が刻まれている。その多くはロシア正教の十字架が刻まれている。経年劣化により多くが判読しづらくなっているが、泉大津市が30年前に編纂(へんさん)した『市史』に89人の名前を収録するに当たって、日本ユーラシア協会(当時は日ソ協会)大阪府連に協力を依頼し、府連の協力のもと、読み取りを行ったという。この日は、墓石それぞれにロシアの国旗に合わせ、白、青、赤の3色の花が飾られた。
日露戦争後にロシア政府によって建てられた五稜の石造慰霊碑には、ロシア語、ドイツ語、ポーランド語、アラビア語、ヘブライ語で、「魂よ、安らかなれ」と刻まれている。また上部にはロシア語で、「死せるロシアの戦士たちへ 旅順港の戦友より 1905年」と刻まれている。
この日は、泉大津市の伊藤晴彦市長の他、在大阪ロシア総領事館のユーリー・ステパノフ参事官ら約70人が参列した。ステパノフ参事官は、長年ロシア兵墓地が泉大津市の住民によって大事に保存されてきたことに感謝を述べ、今後の日露友好の未来を願っているとあいさつした。
その後、大阪ハリストス正教会の松島雄一司祭と同教会聖歌隊による追悼司式が行われ、同墓地に眠る89人のロシア人兵士の平安のために祈祷がささげられた。また、ロシア民謡合唱団「コスモス」によるロシア民謡「同志は倒れぬ」「ルスカヤポーレ」などの献歌や、献花も行われた。
最後に、日本ユーラシア協会大阪府連副会長でロシア文学翻訳者の片山ふえさんが、「墓石に一人一人の名前が刻まれ、墓地が白い石できれいに整えられていて、長年この墓地を泉大津市の住民の方が大切に守られてこられたことに胸を打たれました。ロシアと日本は決して幸せな歴史を紡いできたとはいえません。国と国ではなく、人と人とのつながりによって歴史が育まれてきたことを考えさせられました。両国の友好と発展の新しい一歩となることを祈念したいと思います」とあいさつした。
日本ユーラシア協会は1957年、日ソ協会として設立された。ソ連崩壊後、92年に日本ユーラシア協会と名称を変え、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国はじめ、旧ソ連諸国の友好協会と協力協定を結び、芸術家や民族舞踏団の招待公演、親善使節団や留学生の派遣、ロシア語コンクール、語学講座など、さまざまな活動を行っている。