あるホテルのショットバーを貸し切りにして業者会の懇親会が開催されていました。そこへ貸し切りということを知らない飛び込みのお客さんが入ってきました。受け付けの女性は「本日は貸し切りになっています」と説明していました。お客さんも「突然、飛び込みで来た自分が悪い」と言って、帰っていこうとしました。
それを知った支配人はお客さんを追い掛けていき、通常は使用しないVIPルームを用意し、「こちらで通常のサービスをさせていただきます」と対応していました。その対応を見て、貸し切りのお客さんたちも喜んでいました。この対応を見習いたいと思いました。
私は地方教会の牧師を10年経験したとき、米国に研修に行く機会が与えられました。実は、日曜日の礼拝が重荷に感じられるときでもありました。メッセージを用意していると胃が痛くなり、頭痛になることもありました。そのような重い気分で迎える礼拝ですから雰囲気も良くなく、出席者も減り、ますます落ち込んでしまうという負のスパイラルに陥っていました。
米国の礼拝で驚いたのは、多くの方々が笑顔で迎えてくれたことでした。ハグしてくれたり、握手したり、歓迎の気持ちが表されていました。礼拝では賛美が素晴らしく、音楽バンドの音色にも聞き入っていました。メッセージもインパクトのある素晴らしいものでしたが、ほとんど15分以内でした。もっと聞きたいというところでいつも終わっていました。いつの間にか日曜日になるのが楽しみになり、礼拝を心待ちにしている自分がいました。この状況に憧れました。
これは日本の話ですが、ある地方教会に南アジア出身の牧師さんがいらっしゃいます。日曜日になると、ここの教会は満席だそうです。その牧師さんはいつもにこやかに来会者を迎え、「よくいらっしゃいました。心から歓迎します。祝福を祈ります」と、全ての来会者に声を掛けていました。そして余計なことは何も話さず、何も尋ねようとしませんでした。そのことが来会者に心地よかったそうです。
教会に一度行ってみて、話を聞いてみたいのだが、なかなか敷居が高くて近づけないということを聞きます。また、一度足を踏み入れると、「どこから来ましたか。誰の紹介ですか。子どものころ、日曜学校に行っていたのですか。なぜ、今日、ここに足を運ぼうと思ったのですか」という質問攻めにあったというのです。
何か助けようとしているのかもしれないが、嫌な気持ちになったといいます。そして、なじみの人だけで親しく会話しているので、自分の来るところではないと感じたそうです。また、礼拝メッセージも難しい言葉がいっぱい出てきて、長い話で退屈してしまったといいます。
また、ある経営者は「キリスト教会の葬儀には2度と行きたくない」と話していました。収容人数を上回る参列者だったため、「長い間外で待たされ、お茶一杯出なかった」と憤慨しておられました。普段、少ない参列者に慣れていたため、適切な案内もできず、お茶の用意もできなかったということでした。アルバイトでいいから案内係をお願いし、お茶一杯用意することで気持ちが変わってくるのです。
おもてなしの精神を生かすときに、お客様の満足度はかなり上がってくるのではないかと思います。旧約聖書の中に、旅人をもてなしていたら、その中に神の使いが含まれていて大きな祝福を受けた話があります。
「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。『ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。』彼らは答えた。『あなたの言ったとおりにしてください』」(創世記18:1~5)
鹿児島には「茶いっぺ」という言葉があります。通りすがりの人に「せめてお茶一杯飲んでいってください」というおもてなしの精神です。また、お茶一杯を飲む心の余裕も必要という先人の知恵でもあります。鹿児島の昔からの教訓と聖書の言葉がつながり、心に響きました。
◇