「X-MEN」は、1963年にスタン・リーが生み出したアメリカンコミックのヒーロー物の1つである。他の追随を許さない破竹の快進撃を続けるマーベル映画の中で、ドル箱として安定的にヒットしているシリーズの1つであるといえる。
突然変異で生み出されたミュータントたちと人間との葛藤と争いが、1960年代から現代までのスパンで壮大な物語として描かれている。2000年にブライアン・シンガー監督によって映像化されて以来、2003年、2006年にそれぞれ続編が制作されている。
2006年の第3作でいったん完結するが、人気が衰えず新しいドラマを期待する声が高まったため、2011年からプリクエル(前日譚)ともいうべき「新3部作」がスタートした。2014年にその第2作、2016年に完結編が制作されている。スターウォーズとは異なり、こちらはプリクエルの方が興行的にも作品の評価としても、圧倒的にヒットした。
60年代、70年代、80年代の米国の実際の歴史のリアルな寓話としてのストーリー
その理由は明らかである。「新3部作」は、2011年の「ファースト・ジェネレーション」では1960年代、2014年の「フューチャー・アンド・パスト」では1970年代、そして今回取り上げた「アポカリプス」では1980年代に、実際に起きた事件と関連させた物語となっている。
実際の歴史で米国民が葛藤した出来事を、ミュータントと人間の確執に絡ませることで物語にリアリティーを与えているのである。言い換えるなら、X-MENをはじめとする登場人物たちを狂言回しとして配置することで、寓話的に各年代の「米国」を振り返っているのである。
「マーティン・ルーサー・キング牧師とマルコムⅩのメタファーである2人の主人公
そもそも「X-MEN」とは、米国に存在する差別意識をメタファーとして顕在化した物語である。1963年という時代背景からして、明らかに「ミュータント」は当時の有色人種、殊に黒人(あえてこの表記で)たちである。そして「人間」はもちろん白人種である。
ミュータントとして生まれついた人々は、人間たちから差別され、時にはその能力故に虐待される。それを甘んじて受け入れることで支配され、おびえながら生きてきた彼らの前に、対照的な2人の人物が登場する。
1人は「プロフェッサーⅩ」と呼ばれる車椅子のミュータント。彼は人間との共存を求めていく一派を形成する。もう1人は「マグニート」。彼は人間とミュータントとのすみ分けを主張し、ミュータントとしての攻撃能力を用いることも辞さない、いわゆる「武闘派」である。
1960年代という時代背景を鑑みるなら、彼らは公民権運動時代の2人の指導者のメタファーである。前者はマーティン・ルーサー・キング・ジュニアであり、後者はマルコムⅩである。
現在でこそ、アメリカンコミックのスーパーヒーローは自らの使命に悩み、葛藤することは当たり前になっている。しかし、2012年の映画「ダークナイト」以前に、哀愁を漂わせながら人間と対峙するヒーローといえば、それは「X-MEN」だった。そういう意味では時代を先取りしたヒーロー像を、シリーズ当初から提供していたといえる。
80年代米国に蔓延していた終末思想をエンタメとして描く
さて、本作「アポカリプス」は、この流れの中にある最新作にして、新3部作の完結編である。ここで描かれているのは、80年代米国に蔓延(まんえん)していた終末意識である。核戦争の恐怖を身近に感じていた人々の根底にあった保守的キリスト者の宗教観を見事にエンタメ化している。
古代に葬られたはずの世界最強のミュータントが復活し、人間によって営まれている現代世界を見て失望する。そして仲間となるミュータントを集結させ、世界を自らの力で浄化しようとし始める。この古代から復活したミュータントの強いこと強いこと。さらに、自信を喪失していたり、支配されていることに慣れてしまった姑息(こそく)なミュータントたちに「お前の本当の力に気付かせてやろう」と語り掛け、次々と彼らの力を覚醒させ、自分を信奉するように回心させていくのである。
彼はまさに再臨したキリストのごとく振る舞い、彼によって目が開かれたミュータントたちは、新たに覚醒した能力を駆使して世界を破壊していく。これを止められる者がいるのか? このあたりが映画のクライマックスとなる。
ご存じの通り、第2次世界大戦を経て生み出された米ソ冷戦時代は、人々に核の恐怖を植え付けた。地球を何十回と破壊できるだけの核兵器を保有した2大大国は、1960年代のキューバ危機だけでなく、幾度も世界大戦の危険性を世界に露呈してきた。それが最高潮に達したのが80年代である。そしてこの意識を人々に共有させることに一役買ったのが、保守的なキリスト教の解釈であった。
聖書に基づいた終末思想「ディスペンセーショナリズム」とは?
ハリウッド映画だけでなく、世界各地で「終末」が描かれる文学、絵画、音楽に全て共通しているのは、聖書の黙示録に基づいた終末思想である。その中で最も強烈に米国人の心に根付いているのは、18世紀半ばに英国から米国にやってきたジョン・ダービーの教えであった。これを「ディスペンセーショナリズム」という。
簡単に言うなら、聖書の天地創造から黙示録に描かれている終末までが実際に起こることであって、それがおのおのの時代を7つに分けられるという教えである。そして現在は第6の時代の終了間際であり、間もなく第7の時代が訪れる、とされてきた。
ここで重要なのは、この最後の時代に突入するに際し、キリストが再びこの地上にやって来ると教えていることである。このキリストがやってくる時、世界は終末を迎え、新たな時代の幕開けとともに、現在あるものがいったんリセット(破壊)されるのだ。これが小説や映画などで何度も語られる「ハルマゲドン」という出来事に重ねて語られる。
聖書では、最後まで信仰を守り通した者は、破壊の苦しみを受ける前に天に引き上げられ、キリストと再会し、第7の時代(千年間)をキリストと共に治めることになると語られている。1990年代に米国で数百万部を売り上げるベストセラーとなり、繰り返し映画化されている『レフト・ビハインド』も、この聖書解釈からインスパイアされて作られている。
日本人にとっては、まるで永井豪の「デビルマン」のような世界観ではあるが、核戦争の脅威を身近に感じていた米国人の中には、この世界観を聖書の黙示録になぞらえて受け入れる者が今なお存在するのである。「アポカリプス」で言うなら、この古代ミュータントこそがキリストのメタファーであり、彼によって力をもらったミュータントたちが、虐げられていた初代のキリスト者たちである。そしてこの教えを受け止めている米国人たちは、自分たちがこの系譜に位置していると信じている。
「アポカリプス」は、このディスペンセーショナリズムに基づいた(米国では一番ポピュラーな)終末思想を分かりやすくひもといてくれる。しかもこれを最新のCG技術を用いて、大変面白いSFエンターテインメントとして成立させている。
そういった意味で、「アポカリプス」は最新SF活劇であるとともに、1980年代米国の保守的キリスト者の心情を追体験するのに最も適した教材であるともいえる。
オススメは、新3部作を順番に見ることである。旧3部作以上に、米国に密着したストーリー展開となっていて、しかも宗教性もかなり高いといえよう。
ぜひ、ご覧ください!
■ 映画「X-MEN:アポカリプス」予告編
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