「何かに勝ちたい」というのは人の常である。私たちは、競争や試合において勝ち、また自分の敵が負けてがっかりしているところを見、自分が勝ったことを満喫したいものではないだろうか。それは、バスケットボールの試合でも、チェッカー(西洋の囲碁)のようなシンプルなボードゲームでも、また戦争のように悲劇的なものであっても変わりはない。
しかしながら聖書では、一見すると敗北や失敗でも、実際には勝利を意味する例を挙げている。これらの例が私たちに示してくれるのは、ある事柄に勝つことが、そのまま勝利にならないということだ。時には戦いに勝っても、実際には負けているということがあるのである。
ではこれから、敗北や失敗が実は勝利だったという教訓が得られる聖書箇所を見ていこう。
1. キリストの死
私たちの主イエス・キリストの死に勝るものはない。なぜなら、イエスの死が、罪とサタンを打ち負かしたからだ。それだけではない。死後3日目に復活したことで、死をもが打ち破られ、全ての人に希望が与えられることとなったのだ(ローマ6~8章)。
イエスに自分たちの偽善を暴露されて、自分のやましさを見せつけられ、さらし者にされたファリサイ派の人々は、これでついにイエスを黙らせ、自分たちの治世に降り掛かる脅威を終わらせることができると思っただろう。しかし、彼らは間違っていた。イエスが復活し、さらにより多くの弟子が出て行き、多くの弟子をつくることに火を付けたのだ。
サタンは、いよいよ自分たちが勝利を得るだろうと思ったが、間違っていた。キリストは十字架の上で無防備で、無力であった(コロサイ2:13~15)。しかし、サタンにとって悪いことに、キリストの復活は、キリストに従う者全てが共に天上の王座に着くこと、またこの世においては聖霊を持つことを意味した(エフェソ2:6)。
キリストの地上での人生、死、および復活は、それらを理解していない人たちにとっては損失であるように思われる。しかし、救われている人たちにとっては、神からの救いの力なのだ。
2. ダビデの逃亡
イスラエルの王になる前の若い頃、ダビデは命を狙われ逃げる必要があった。逃げるという行為は、敗北とか失敗であるかのように私たちは考える傾向があるが、ダビデのいた状況では逃げることが必要不可欠であった。
逃げている間、ダビデは、困窮している者、負債のある者、不満を持つ者たちの頭領となった(サムエル上22:2)。神が計らってくださり、彼らから好意を得ただけではなく、彼を殺そうとするサウルの種々の試みからも守られた(同18:11、19:10、20:33)。
サウルを殺すことをしなかったダビデの意思、行動は、今日に至るまで覚えられている(サムエル上24章)。ダビデは、サウルに対して何の悪事も敵意もないことを示し、身の潔白を証明した。
3. 一粒の麦
主イエスは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と語った(ヨハネ12:24)。これは単なる比喩ではなく、人生における真実である。
私たちは皆、自分自身と罪に対して死ぬ必要がある。そうすることで、神が私たちの内に御霊の実を結ばせてくださり、神に似た者とされていくことができる。私たちは皆、己の肉に死ぬ必要がある。そうすることで、聖霊が働く余地が増え、聖霊が私たちの内に御霊の実を結ぶことができる(ローマ8:1~17、ガラテヤ5:16~26)。