在任中に卒業式で「君が代」の伴奏を拒否したことに対する東京都人事委員会の減給処分は不当であり、憲法19条(思想・良心の自由)と20条(信教の自由)(※文末の注)に違反するなどと訴えていたクリスチャンの元小学校音楽教諭、岸田静枝(しずえ)さん(66)の裁判で、東京高等裁判所は19日、減給処分の取り消しを命じた一審とほぼ同様の判決を下し、原告である岸田さんと被告である東京都人事委員会および同教育委員会の双方からの控訴を棄却した。
判決文には、「主文 1. 本件各控訴をいずれも棄却する。2. 1審原告の控訴に係る控訴費用は1審原告の負担とし、1審被告の控訴に係る控訴費用は1審被告の負担とする」と記されている。
東京高裁はこの判決文で「減給10分の1・1月間の懲戒処分をした本件処分は、処分の選択が重きに失するものとして社会観念上著しく妥当を欠き、懲戒権者の裁量権の範囲を逸脱したものとして違法であると認められるから、本件処分を取り消すべきものと判断する」と述べた。
原告弁護団の高橋拓也弁護士は19日、東京・霞ヶ関の司法記者クラブで、今回の判決について記者団に対し、「結論としましては、一審と同様になりました。減給処分については取り消しを維持して、それ以外の部分については請求棄却ということで一審と全く同様の結論になっています」と説明した。
この訴訟の主な争点について、高橋弁護士は、「憲法20条違反の問題と、減給処分に関する裁量権の逸脱の有無という主に2点の論点があったのですが、これについて、結論としては、今回の控訴審判決は一審判決と同様の結論を取りました」と語った。
高橋弁護士「減給処分に関する裁量権の逸脱の有無の内容に重要な判示」
「しかしながら、今回の控訴審判決というのは、単に結論が同じというだけではなくて、さらに踏み込んだ判断をしています」と高橋弁護士は述べ、「減給処分に関する裁量権の逸脱の有無の内容について、今日の控訴審判決は重要な判示をした」と付け加えた。
「『本件処分において減給処分を選択した都人委の判断は、その裁量権を考慮してもなお重きに過ぎるというべきである』(第一審判決49ページ)というところを、今日の控訴審判決はそのまま変更するということで、より具体的に、詳細に判示をしているということになります」と、高橋弁護士は述べた。
「今後の裁判に与える影響として言えることは、この控訴審判決というのは、人事委員会の審議の在り方について、きちんとこうしなさいというところの枠組みを示しています。そして、もちろんこのことは人事委員会だけでなくて、今後東京都教育委員会が懲戒処分を出す場合にも当然に踏まえなければいけない枠組みを示していると理解することができます。重要な考慮要素についてきちんと考慮しなさいということを判決文の中で明言しているし、考慮しちゃいけない事項を考慮しちゃいけないという、専門用語で『他事考慮』といいますが、今回の東京都人事委員会の裁決については他事考慮もあったと明確に認定しているのが、この裁判の特徴です」
この判決文で東京高裁は、「1審原告が本件職務命令に従わなかったのは、卒業式の円滑な進行を妨げようとの積極的な害意や悪意があったわけではなく、たとえ不利益な処分がされるとしても、内面のみならず外部的行動においても個人の信仰及び歴史観・世界観に忠実であるべきであるとの考えによるものであると認められるのであり、このような事情は、懲戒事由に該当すると認められる行為の原因、動機、性質として考慮されて然るべきところ、本件裁決はこの点の考慮が必ずしも十分とは認め難い」と述べている。
「このことは今後の人事委員会審議だけではなくて、懲戒権者である東京都教育委員会が懲戒処分の判断を下す際にも当然考慮しなさいという重みを十分持っている判断」と高橋弁護士は語った。
判決文にはさらに、「本件の卒業式においては、校長の事前の措置により別の教諭による国歌斉唱の際のピアノ伴奏が実施され、その結果、卒業式の進行に具体的な支障も混乱も何ら生じなかったとの事実は、懲戒事由に該当すると認められる行為の結果及び影響等として考慮されなければならないところ、本件裁決はこの点の考慮も必ずしも十分とは認め難く、むしろ、本件不伴奏行為を『危険性を内包する性質』を有する非違行為と評価し、本件の具体的な事実関係に即さない事情を考慮しているものと認められる」と記されている。
これについて高橋弁護士は、「卒業式の進行に具体的な支障も混乱も何ら生じなかったという事実は必ず考慮しなければいけないというところを、東京都人事委員会が出した裁決は全然考慮していないと、この点も断罪している」と語った。
「加えて、この控訴審判決が珍しいのは、『むしろ』とこの後に続いて、他事考慮への違法もあると認定しているところがちょっと変わっている」と高橋弁護士は続けた。「不伴奏行為のことを非違行為と評価して、今回の具体的な事実関係に即さない事情(=他事)も考慮しているという違法な判断だったことも明確に断罪している。ここまで言っているのはかなり珍しい。しかも、人事委員会という第三者的な位置にあるところについてここまで明確な違法を認定したというのはかなり珍しい。人事委員会審議、それから懲戒処分についても今後の基準になる判断が示されたとわれわれは考えている」
高橋弁護士はまた、憲法20条に定められた信教の自由に関し、「今回われわれは憲法20条違反について、かなり詳細に主張してきました」と報告。「岸田さんご本人が若い頃からクリスチャンとして活動し、信教の自由に基づいて『君が代』のピアノ伴奏を拒否したということで、20条違反の問題、信教の自由の侵害の問題についても言ってきましたが、そういった信教の自由や信仰に基づく行為、それに基づく職務命令違反行為と、そうではない一般の非違行為(いわゆる体罰とか、わいせつとか)とは全然性質が違うんだと、この控訴審判決は言っている」と指摘した。
判決文は、「1審原告の過去の非違行為は、いずれも、1審原告個人の信仰及び歴史観・世界観のために職務命令に違反したという点で共通しており、1審原告個人の信仰等に照らし、同様の職務命令の回数が増えればこれに伴って現実の支障や混乱の有無にかかわらず違反行為の回数だけは増えるという関係にあり、1審被告の主張は、これをそのような事情のない一般の非違行為と同列に論じる点で相当ではない」と述べている。
「今までここまでかなりはっきり言ってくれた裁判例はなかなかなかったという意味でも、かなり大きな判断だと認識している」と高橋弁護士は語った。今後、人事委員会はもちろんのこと、当然に都教委もこういった点を踏まえなければいけないことになると、高橋弁護士は強調した。
憲法20条に定められた信教の自由について、高橋弁護士は、「20条違反については従前通りの一審判決と全く同様の、ここに引用した、総合考慮すべきだというような判断基準と似た基準を控訴審判決も引用して、20条違反については否定している」と語った。
「もう1回整理しますと、20条違反については、ほぼ一審判決を踏襲しましたけれども、懲戒処分の裁量権の逸脱の有無・濫用については、極めて重要な判断を示したということで、大きな意義のある判決が出たと認識している」と、高橋弁護士は結んだ。
岸田さん「みんなでやってきてよかった」
原告で日本聖公会清瀬聖母教会(東京都清瀬市)の信徒である岸田静枝さんは同日、東京・霞ヶ関の司法記者クラブで行われた記者会見で、記者団に対し、「すごくいい判断が出たことは、私もよかったなと思っています」と語った。
「いろんな方が、いろんなところで、いろんな方法で、それぞれ抵抗している」と、岸田さんは、この判決が出される前に聖書を引用しながら記し、判決後の記者会見で記者団に配布した「『君が代』修正処分・東京高裁判決の日に」と題する文章に言及した(=文末にその全文を掲載)。
岸田さんは、「この裁判の節目だけじゃなくて、私がまだ知らない、どこかでやっぱり1人ずつが抵抗している。そして、それをずっと続けている。私も自分ができること、やって来たことをずっと積み重ねて、これからもやっていきたいと思っている。そういうのが、一つ一つ、例えば裁判のこの節目でいえば、いい結果が出るということになると思うので、やっぱりみんなでずっと続けてきて、私独りじゃなくて、みんなでやってきてよかったなと思います」と述べた。
秋山原告団長「人事委員会には訴えを聞き入れてもらえない」
そして、原告団長の秋山良一さんは、「この裁判は、1つは都教委の処分に対して不当であるということと同時に、もう1つ大きな意味を持っているのは、人事委員会が、都教委が出した停職1カ月の処分を、減給1カ月10分の1に『修正』して出し直したということになると思う。私たちは処分を受けたり何かあった場合、不服申し立てということで人事委員会に申し立てて、そこで審理してもらうというルートがあるわけですが、実際問題、人事委員会というのが都の行政機関の一部みたいになっていて、公平審理をする場所であるにもかかわらず、私たちが不当であると訴えても、まず聞き入れてもらえない。そういうシステムになっていることを、皆さんにぜひ理解していただきたい」と語った。
「今回の裁判で一番大きかったものは、人事委員会の在り方についてきちんとした判断が示されたということです。人事委員会が都教委と一緒になって累積加重処分をするということに対して、やはりきちんと精査をしてやっていない、いい加減な処分であるということを断罪しているところが非常に大きい」と秋山さんは話した。
「皆さんもこの裁判が勝利だったとか一部勝訴とか、そういう形での捉え方ではなくて、東京都で行っている都教委の処分と、それを公平に審理しなきゃならない人事委員会が、一体どうなっているのか、そして、そういう中で働いている者が、どのように救済されないで苦しめられているかというところに、記者の皆さんにぜひ鋭いメスを入れて報道していただきたい。これが私の切なるお願いです」と、秋山さんは結んだ。
「最高裁に上告するつもりか?」との本紙記者の質問に対し、岸田さんは「考え中」と答えた。高橋弁護士も「一審の時には、もし東京都側が控訴してこなければ、こちらが控訴しなくてもいいのではないかという判断があった。先に東京都側が控訴してきたので、こちらも控訴したという経緯があり、今回もそうするのか、あるいはやっぱり20条の部分が不服だということで最高裁を視野に入れるのか、それはこれから協議する」と語った。
岸田さんがこの判決前に記し、記者団に配布した「『君が代』修正処分・東京高裁判決の日に」と題する文章の全文は、以下の通り(ただし、かぎかっこや二重かぎかっこは本紙が編集段階で校正した)。
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「君が代」修正処分・東京高裁判決の日に
2016年7月19日
「君が代」不当処分撤回を求める会 岸田静枝
私が2010年3月25日の、教員生活最後の卒業式で、「君が代」ピアノ伴奏の職務命令に従わなかったと東京都教育委員会から停職一ヶ月の懲戒処分を受け、2013年2月7日に東京都人事委員会から減給一ヶ月の懲戒処分に「修正」裁決された件で、東京地方裁判所は2015年10月8日に、「修正」後の減給一ヶ月の懲戒処分を取り消しました。
東京都人事委員会が裁決により修正した懲戒処分を初めて裁判所が取り消したこと、過去の処分歴は理由にならないこと、累積加重の減給一ヶ月の超過処分は裁量権の逸脱であること、そして憲法第20条に関しても、「・・・・キリスト教信仰と君が代の解釈等が結びついた原告の主観的認識を基準にすれば、本件職務命令及び本件処分は、その一般的、客観的な性質いかんにかかわらず、原告に取っては、原告の信仰とは相容れない行為を行うことを強制する行為として受け止められることになる。この意味において、本件職務命令が、原告の信教の自由についての制約となる面があることは否定しがたい。」(判決文33ページ)と不十分ではありますが、裁判所から憲法判断に触れた判決が出たことは、良かったと思っています。
一方、私の教員生活最後の日が、停職一ヶ月という重い懲戒処分が実行された一日であったこと、東京都人事委員会の裁決が減給一ヶ月の懲戒処分に「修正」されたことに対する国家賠償請求は、棄却されました。
控訴審は二回で結審し、今日は東京高等裁判所から判決が出されます。司法権を担う裁判所は、日本国憲法で保障されている私たちの権利と自由を守る役割があります。日本国憲法を遵守し、「君が代」の強制は違憲であるとの判決が出るよう、願っています。
定年退職をして6年です。一人の練馬区市民としての生活を送りながら、「君が代」処分裁判が終わらない今は、教員生活当時に引き戻されてもいます。さまざまな思いが交差していますが、その中から二点を書きたいと思います。
現職の時は、職務命令や懲戒処分や、それに付随する再発防止研修はもちろん、意気地なしで泣き虫の私は、独りになると辛くて涙が出てしまいました。最も辛かったのは、連日校長室に行って「職務命令の撤回」を訴え続けること、職場の中で「君が代」強制問題を、膝を突き合わせて話し続けること、教育委員会や管理職が観察する中で「君が代」の授業を続けること、その他にも自己申告書や音楽専科経営案、週案などの提出拒否、意見の違いを尊重しながら協働で教育実践を探ってゆくこと、つまり自分が立っている場所で、自分の思いに反しない言動を、誤摩化さないで、弁解しないで、続けてゆくことでした。誤摩化し流されてしまった時に、弁解をしないで素直に認め、やり直すことでした。問題意識を持ち意見を言ってゆくことも大切ですが、自分が直接に関わらずに安全地帯から、評論・批評だけするのは避けたいと思っています。
自分が立っている場所でというのは、キリスト教の信仰と切り離せません。
「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。」(ルカ伝6章46節)
「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ書1章2節)
「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ書2章26節)
のような、信仰と行為の一致を説く聖句は、私の日常の生き方なのです。「君が代」をピアノ伴奏している一瞬だけキリスト教信徒を止めることは、私にはできません。
退職した今、市民としての立場での言動は、教員のそれと、方法や内容は違ってきています。自分の考えを明らかにせず、見て見ぬ振りをする、行動を起こさない、あるいは事なかれの言動を選択することは、キリスト教信徒としてどうなのだろうと、常に葛藤の中にいます。
憲法第20条は、「信教の自由」が実質が伴わず不十分であるから、保障し規定しているのだと思います。高橋拓也弁護士さんは、どの準備書面でも、憲法第20条を明確に重厚に展開してくださっています。
二点目は、憲法第20条を使って生きてゆくことと重なっていますが、「分断」についてです。私は35年間の教員生活で、人との違いを認め合うこと、異なる意見に耳を傾けること、一人ひとりの意思が尊重されること、自分を肯定することは誰かを否定することではないと確信してきたはずですが、つい、「右の手のしていることを左の手に知られないように」(マタイ伝6章3節)ではなく、「自分の目にある梁が見えずに、どうしてきょうだいに、『あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか」(ルカ伝6章42節)と責めてしまいます。学校で障害がある子どもを普通学級から追い出すことなどさまざまな問題について、市民活動の中にあるささいな方針の違いなどを利用して、権力は巧みに二分三分に分断し、何が問題なのかを見失わせてしまいます。
「君が代」処分でいえば、さまざまな人が、さまざまなところで、さまざまなやり方で抵抗してきたこと、これからも抵抗が続くことを、謙虚に共有してゆきたいと、私は改めて思っています。
以上
注 「思想及び良心の自由」「信教の自由」に関する日本国憲法の条文
第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。