14章 痛みを伴う成長
2歳半になる娘のパーミーは、私の膝の上で気持ちよさそうでした。私も、しっかり娘を抱きしめて、ロッキング・チェアーに揺られながら親子で至福の時を楽しんでいました。
さらにギュッと私を抱きしめた娘の口から、私は、突然思わぬ言葉を聞いたのです。
「ママ、私、大きくならないで、ずっとこのままでいたいの」
「え、なんで?」
「ずっと、ママの赤ちゃんでいたいの」
娘の言葉を聞き、その口調から私はハッとしました。娘が「ずっとこのままでいたいの」と言った言葉をそのまま受け取り、「え、なんで?」などと聞き返さなければよかったのにと思ったからです。
ロッキング・チェアーに揺られて、2人の時がゆっくり過ぎてゆきました。 娘が言った言葉を反すうすると、彼女の心の内が読み取れたような気がします。
娘の純真無垢な年齢の後には、これからの人生が、いつも楽しいことばかりではないと気付くときがやがて来るでしょう。彼女が私の腕に抱かれて感じる安らぎや温もりが、いつも必ずあるとは言えません。私は、娘の成長はまだこれからなのだと思いました。
そこで、かわいい娘が「ずっとこのままでいたい」と言ったことがきっかけとなり、いろいろなことを考え始めました。
自分が知っている世界に閉じこもり、そこで安心や安らぎを握り締めたがるのは、子どもだけでしょうか。私たち大人も、自分のことよりも、むしろ、他の人々に関心を寄せなければならないときに、安心できる自分自身の小さな世界に閉じこもってしまうときがありますね。
娘を抱き、椅子に揺られて考えていると、今までの思いは、いつの間にか祈りになっていきました。
「パーミーだけでなく、他の2人の子どもたち、ブレンダとケントにも伝えたいことがありますから、主よ、どう教えたらよいか、私を導いてください。私たちが必要とする安らぎは、あなたを知らなければ得られないことを教えたいと思っています。子どもたちが、自分たちの小さな世界に閉じこもらないで、他の人々のことに思いをはせるとき、その時こそ、自らが一番成長するのだと理解できるようにしてあげてください。成長と自らを捨てる関係は、深いつながりがあることを子どもたちに学ばせてください。主よ、どうか、子どもたちが大きくなりたいと願えるように、彼らに力を与えてください。そして、仕えられるより、仕える人に育つように。親が良いお手本を示せるように、私たちをもお導きください。アーメン」
「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇37:4)
ウエストが高く、スカートの部分がたっぷりある、フワフワしたかわいいドレスを想像していただけますか。パーミーが最後に着た、フリルがいっぱい付いているドレスの最後の手入れをしていたのです。
ドレスを片付け始めながら、「なんてかわいいドレスだったのだろう。もう一度だけ、パーミーをドレスの中に押し込んでみたいわ」とドレスをしまい込んで、後悔しないだろうかと迷い、私はためらいました。
5歳になったばかりの娘の関心が大人っぽい物に移っていることには、私も気付いていました。しかし、子どもたちの思い通りに、子どもから抜け出したい気持ちを、そのまま許すのは難しいことです。
息子のケントがイートン製の短いズボンを最後に着たときも、パーミーの洋服と同じようなことを感じました。息子のズボンはまだ小さくなっていないのに、彼は「子どもっぽい」と言って身に付けようとしませんでした。彼は今の時だけが子どもでいられるのですから、「大人の雰囲気の洋服」などと思うのは、なんともったいないことでしょうか。
まだ幼い年頃の少年たちを「小さな大人」に駆り立て、少女たちが「女性」に憧れる社会を作ったのは私たち大人だと思います。子どもについてでも、洋服のことに関してでもありませんが、他にも同じような気持ちがあったと、ふと思い出しています。
その思い出は、修養会の時に経験したことです。インディアナ州のウィノーナ湖畔で開催された修養会には、何と多くの参加者があったでしょうか。
会の期間中に、部屋の向こう側にいた婦人に何度となく手を振ってあいさつをしました。近づいて、せめて親しくなりたかったのです。それから1週間がたちました。彼女に会いたいと思い、 大勢の人々の中をかき分けて進んでみましたが、やはり会えずじまいになり、私の願いは叶いませんでした。
私は、「やっぱり、昔のほうがよかった」と、参加者が少なかった修養会を懐かしく思いま した。以前は「親しかった友に会える!」と期待して年1回の修養会に参加し、この機会でしか会えない友との交わりを楽しめたものです。
会が小さかったので、お互いに知らない人は誰もいませんでした。修養会が大きくなり過ぎたのでしょうか。交わりを大切にする人々にとっては、会が大きくなったために、お互いに励まし合うことができなくなったといえるでしょう。
そのように考えると、私は成長することに抵抗を感じ始めています。進歩するためには、時間、努力、お金を掛けなくてはなりません。何かを犠牲にして大きくなるのです。
修養会が成長して大きくなるように祈ってきましたが、成長することと大きくなることが相反していると気が付いて、愕然としています。成長を期待していたものの、結果としては、がっかりすることばかりが残っているような気がします。今までお互いに慣れ親しんできた温かくて安心できる交わりがどこかに行ってしまったように思えるからです。
成長と共に一方では犠牲があるのは、自然の成り行きなのでしょう。
私たちは自分たちを安心させてくれる物にしっかりとつながっていたいと思うものです。新しい友を作るより、なじみのある友達との交わりの方が気楽で心地よい気持ちでいられますね。
私たちは、長く続いた親しい絆を断ち切りたくはありません。親しい関係がなくなると思うと、どうしても不安が募ります。
受けるより与える方が、はるかに祝福があることを忘れてはいませんか。信仰も同じところに留まらないで、思いっきり挑戦する喜びや、それによって得られる新たな勝利の方が、親しくて居心地のよい関係よりもはるかに勝っていることを思い出しましょう。
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」(へブル12:1)
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【書籍紹介】
ミュリエル・ハンソン著『蜜と塩―聖書が生きる生活エッセイ』
読んでみて!
一人でも多くの方に読んでいただきたいエッセイです。聖書を読んだ経験が有る、無しにかかわらず、著者ファミリーの普段着の生活から「私もそのような思い出がある」と、読者が親しみを抱くエッセイです。どなたが読んでも勉強になります。きっと人生の成長を経験するでしょう。視野の広がりは確実です。是非、読んでみてください。
一つは、神を信じている者が確信を持って生きる姿をやさしく、ごく当たり前のこととして示しているからです。著者は、日本宣教のため若き日に、情熱を燃やしながら来日しました。思わぬ事故のためにアメリカへ帰らなければなりませんでしたが、生涯を通して神への信頼は揺るぎませんでした。
もう一つは、日常の中に働いている聖霊のお導きの素晴らしさを悟ることができるからです。私たちの日常生活が神様のご意志のうちに在ると知ることは、安心と平安を与えるものです。
さらに、著者のキリスト者生活のエピソードを通じて、心が温まるものを感じます。私たちの信仰生活に慰めと励ましが与えられます。信仰が引き上げられて、成長を目指していく姿勢に変えられていく自分を発見するでしょう。
長く深く味わうために、急がずに、一日一章ずつでもゆっくりと読んでみてはいかがでしょうか。お薦めいたします。
ハンソン夫妻の長い友 神学博士 堀内顕
ご注文は、全国のキリスト教書店、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。
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