9章 二つのユニフォーム
息子のタンスに、二つのユニフォームが並んでいます。それぞれには、それにまつわる話があります。
最初にお話しするユニフォームは、息子が所属している地元の楽団に関わるものです。このバンドは、世界的に有名なキチラノ少年バンドと同じ監督によって指導されていました。
この評判の良いビッグ・バンドのメンバーとして迎え入れられることが、息子が心に抱いていた最終目標でした。そして彼の念願がかない、演奏の腕が仲間に認められている団員以上に一生懸命、真面目に練習をしていました。
私は練習初日の夜を思い出します。息子の帰りを待つ2時間が私にはあまりに遅く、のろのろと過ぎてゆき、彼の帰宅が待ち切れませんでした。
彼が玄関に入ってきたときは、サッカーの最初の試合から帰ってきたときの息子と同じ様子を期待していました。サッカーの試合には負けたのですが、その時は喜び勇んで帰ってきて、笑顔さえありました。しかし、今回は笑顔もなく、悲壮な顔に見えました。
「バンドの集まりはどうだったの?」「まあね」と答えましたが、見るからに意気消沈していました。
「ケントには、曲が難しすぎたの?」「通して演奏したのは最初だったからね」。しばらく重い空気が漂っていましたが、息子の口を突いて出てきた言葉がありました。
「ね、ママ。バンドに入って5分もたたないうちに、疑問に思い始めたことがあったんだ。僕、ここまでやってきたけれど、本当にうれしいのかどうか、分からなくなった。この先、もっともっと一生懸命やらなきゃならないんだよ!」
さらに「バンドの監督さんがね、すさまじい音をたてて、トランペットを僕の耳のすぐそばで吹き鳴らすんだ。彼のつばが僕のセーターまで飛んで来たよ」と、不満を声にしてぶちまけました。息子の話を聞き、練習を続けるように励ますのが母親の務めだと思いました。
彼は地元のバンドに所属しているだけでなく、キチラノ少年バンドの首席トランペット奏者として活躍していましたから、続けさせたいと思うのは当然でしょう。
でもよく考えてみると、もっと早く私が息子の気持ちに気付いていればよかったのです。練習のために、息子と彼の友達を毎週、遠くバンクーバーまで車で連れて行っていたのは、私でしたから。
一方、野球チームのユニフォームとなると、全く別の話になります。彼と同年代の子どもなら誰でもそうでしょうが、野球チームに入りたくて仕方がありませんでした。
たった9歳の子どもが大リーグ所属の2軍を通り越して、すぐさま大リーグチームに受け入れられたのですから、彼は手放しで喜びました。シーズン中はレギュラーになれずベンチにずっと腰かけていましたが、それでも彼の野球熱は全然冷めませんでした。
「野球の練習はきつくないの?」と聞いたことがあります。
「ママ。もちろん、つらいよ」「それだったら、野球チームに入って後悔したこともあるでしょ」と、私は野球少年の気持ちを知らないふりをして尋ねていました。
私には兄弟が5人いましたから、野球に夢中になる少年たちの気持ちは知っていたつもりです。 彼は私の言葉が信じられないかのように、私の顔をまじまじと見つめて言いました。
「野球の練習は面白いよ。ママ、気が付かなかったの?」「バンドの練習は興味がないのね」「そうだな。野球ほど夢中にはなれないね」
息子との会話は、以前、教会のオルガン奏者と話し合った内容と重なっているように思えてきました。主にどのようにお仕えしたらよいか、と話し合ったときを思い出していたのです。
彼女は、礼拝で最高の奏楽ができるように毎週、練習に何時間を注ぎ込んでも、練習はつらくないと言っています。そこには、彼女が全身全霊で練習をする喜びがあるからです。
「習うよりも慣れろ」と私たちはよく言います。しかし、主のために何かしようとするときに、本当の喜びが伴わないことがありますね。何が欠けているのでしょうか。
練習が足りないのでしょうか。それとも祈りが足りない? あるいは準備不足? 賜物が全く用いられていないからでしょうか。
主にお仕えするときは、自分にできる奉仕を喜んですることです。そのような人々を主は祝福してくださいます。自分のやっていることを心から楽しめる者は大いに幸いです。
喜んでするときにこそ、人は最善を尽くすことができるのです。
「喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ」(詩篇100:2)
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【書籍紹介】
ミュリエル・ハンソン著『蜜と塩―聖書が生きる生活エッセイ』
読んでみて!
一人でも多くの方に読んでいただきたいエッセイです。聖書を読んだ経験が有る、無しにかかわらず、著者ファミリーの普段着の生活から「私もそのような思い出がある」と、読者が親しみを抱くエッセイです。どなたが読んでも勉強になります。きっと人生の成長を経験するでしょう。視野の広がりは確実です。是非、読んでみてください。
一つは、神を信じている者が確信を持って生きる姿をやさしく、ごく当たり前のこととして示しているからです。著者は、日本宣教のため若き日に、情熱を燃やしながら来日しました。思わぬ事故のためにアメリカへ帰らなければなりませんでしたが、生涯を通して神への信頼は揺るぎませんでした。
もう一つは、日常の中に働いている聖霊のお導きの素晴らしさを悟ることができるからです。私たちの日常生活が神様のご意志のうちに在ると知ることは、安心と平安を与えるものです。
さらに、著者のキリスト者生活のエピソードを通じて、心が温まるものを感じます。私たちの信仰生活に慰めと励ましが与えられます。信仰が引き上げられて、成長を目指していく姿勢に変えられていく自分を発見するでしょう。
長く深く味わうために、急がずに、一日一章ずつでもゆっくりと読んでみてはいかがでしょうか。お薦めいたします。
ハンソン夫妻の長い友 神学博士 堀内顕
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ミュリエル・ハンソン(Muriel Hanson)
ミュリエル・ウエッスマン(Muriel Wessman)はミネソタ州出身、カルヴィン・ハンソン(Calvin Hanson)はカリフォルニア州出身。2人は、イリノイ州シカゴにある福音自由教会聖書学校で出会う。その後、ディヤーフィールド(Deerfield)郊外にあるトリニティー(Trinity)神学校で学ぶ。両氏はウィートン大学(Wheaton)で学び、ミネソタ大学(Minnesota)を卒業。1947年6月7日に結婚。
夫がミネアポリスで牧会に携わっていた時の1949年3月、2人はアメリカ福音自由教会から日本への初代宣教師としての召命を受け、遣わされることになる。
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1949年8月30日、改造した軍艦に乗船して日の昇る国、日本を目指して出航する。9月13日、横浜上陸。カルヴィンとミュリエルは語学の学びを始める。一方、カルヴィンは路傍伝道者として、街頭で熱心に福音を宣べ伝える。東京郊外の浦和の地で、従軍牧師が高校生のために英語聖書クラスを開設していた。その後、従軍牧師の引退に伴い、ハンソン夫妻が1950年3月にこの英語聖書クラスを引き継ぎ、拠点教会の礎となる。
新しい宣教師たちがアメリカから到着した後、ハンソン夫妻は浦和から京都に移り、宣教本部を開設、開拓伝道に励む。1951年、カルヴィンは1週間に1回、日本語でラジオ伝道を始める。当時、京都放送は初めて伝道番組が電波に乗るのを許可したのである。ラジオ伝道は7年間続く。ミュリエルはラジオ放送のために、携帯用の足踏みオルガンを弾き、3人の女性合唱の指導にも携わる。京都では、宣教師館に隣接する画家のアトリエが最初の教会となる。その周辺で、二つの開拓伝道が始まり、教会の基礎が作られていった。聖書学院を設立。カルヴィンとミュリエルは同労者の宣教師と共に教鞭を執る。
1953年1月3日、長女、ブレンダ(Brenda Kay)が誕生。1954年6月、カルヴィンとミュリエルは最初の休暇が与えられ、貨物船で母国に一時帰国する。同年の9月17日、長男、ケント(KentBryan)が、ミネソタで誕生。1955年夏、ハンソン一家は貨物船で日本に戻る。休暇で留守にしていた場所で、再び宣教活動に専念する。
1957年7月27日、次女、パメラ(Pamela Sue)の誕生を喜ぶ。ここまでは万事順調だった。しかし、1959年1月3日の寒い日に、悪夢が襲う。ハンソン師が、隣町へ説教の奉仕に出掛けていた最中のことである。ミュリエルが3人の子どもたちをお風呂に入れていたときに、4人共がひどい一酸化炭素中毒に見舞われた。母親は、ほとんど意識を失いかけていて、意識のない3人の子どもを廊下に蹴り出すのが精いっぱいであった。後になって分かったことだが、この事故の原因はお風呂の煙突が壊れていたためだった。
子どもたちは回復に向かったが、ミュリエルには回復の兆しがなかった。6月、ミネアポリスの宣教団本部は、彼らがプロペラのジェット機で帰国できるように手筈を整える。京都の医者は1年も経てば再び日本に戻ってこられると保証した。飛行機旅の途中、緊急のためにホノルルに着陸。ミュリエルは直接、病院に緊急搬送され、ハンソン師は子どもを連れてホテルに向かう。血液が一酸化炭素に侵されていたために、ミュリエルの体内の全血液を急いで入れ替えなければならなかった。彼女の肺機能は20パーセント以下、さらに血圧は辛うじて測れる程度であった。しかし、翌日の夕方、医者は彼女に、「大丈夫、持ちこたえられる」と告げる。その3日後、母国の実家に到着。
神経系統の機能が傷みつけられた状態で、以後、彼女は特に、視神経、肢、記憶障害に悩まされることになる。家族は、およそ2年間、ミュリエルの両親が住むミネソタ州ダッセル(Dassel)で、両親と共に生活。その後、ミネアポリスのアパートに移り住む。カルヴィンは牧師の立場で、博士課程最後の学びをミネソタ大学で続ける。1961年、カルヴィンはトリニティー短期大学の学長として招聘(しょうへい)を受ける。
1962年9月、短期大学設立に着手。カナダのブリティシュ・コロンビア州ラングレイ(Langley)の広大な牧草地帯の中に大学が誕生する。しばらくしてから、ミュリエルの健康状態に判断が下される。日本に戻るだけの十分な体力がなく、回復には10年はかかる、という結論であった。彼らは、まだ34歳であったが、宣教師としての奉仕に終止符を打った。カルヴィンは学びを中断して、家族全員を連れて、ブリティシュ・コロンビア州、ホワイト・ロック(White Rock)に引っ越す。そこで、ミュリエルは学長である夫の良き協力者として、尊い秘書の役割を自宅で果たす。ミュリエルは、福音自由教会が定期的に発行する機関紙にコラムの投稿依頼を受け、「Honey and Salt」(蜜と塩)の原稿を15年間書き続けることになる。執筆活動は記憶回復のためにもなった。
1974年8月、カルヴィン・ハンソンは、トリニティー・ウエスタン・カレッジ(Western College)の学長の座をネイルシュナイダー(Neil Snider)に譲る。そして、大学はカナダで最初のキリスト教信仰に基づく、トリニティー・ウエスタン大学(Trinity Western University)として新しい道を歩み出す。子どもたちはそれぞれの道に進み、自立する。カルヴィンはラングレイ(Langley)で2年間、牧会をした後に、イリノイ州シカゴにあるトリニティー神学校の教授として招かれる。
この間、ミュリエルは彼女自身の著作活動をやめて、夫の出版を助ける。最初の書物は、『On the Raw Edge of Faith』という表題になる。これは、彼らが信仰の崖っ淵に立たされる経験をしながら、トリニティー・ウエスタン大学設立に携わった話である。
トリニティー神学校で18年間、教鞭を執った後、カルヴィンは引退し、ミュリエルと共にワシントン州、ベーリングハム(Bellingham)のサドン・ヴァレイ(Sudden Valley)に移り住む。
その後、すぐにケニア(Kenya)へ宣教活動に向かう。3カ月の滞在中、カルヴィンはモファット(Moffat)聖書学校で教え、ミュリエルは校内にある出版部で、編集、執筆に当たる。
彼らは、無牧の教会で、牧会の働きも手助けした。このような働きは6カ月単位で五つの州、九つの教会に及ぶ。また、日本福音自由教会に招かれて、日本に6カ月ほど滞在し、地方教会を訪れ、人々を励まして回る。短い期間ではあるが、このような働きをインドでもする。
彼らは、福音自由教会の招きで日本に何度か戻り、記念大会や会議などで奉仕をする。2010年7月、カルヴィンは、日本福音自由教会60周年記念大会の講師として招かれ、初代宣教師として開拓伝道に励んだ日本で、説教をする機会が与えられたことを心から喜ぶ。カルヴィンとミュリエルは3回目の挑戦ともいえる開拓伝道の働きを彼らが住むサドン・ヴァレイにおいて継続している。
この地の自然は他のどこよりも美しく、住んでいるマンションからの眺めを楽しみ、創造の素晴らしさを満喫している。2人には5人の孫と2人のひ孫が与えられている。