—著書では戦中は熱烈な軍国少年だったと書かれていらっしゃいます。
戦中は軍需動員で、呉海軍工廠で戦艦大和のすぐそばで働いていました。門を入っていくとすぐ正面に大和が係留されていました。呉工廠には、戦闘で大破した潜水艦、駆逐艦、巡洋艦が修理に入ってくるわけです。
小さな船で、修理工の工員さんを瀬戸内海のあちこちに浮かんでいる大破した船に連れて行く機関手の仕事をしていました。毎日、もう修理なんてほとんどできるような状態じゃない、見る影もないめちゃくちゃになった船ばかりを目にするわけですよ。
だから、「新聞で日本が勝っていると言っているけど、いったい日本はどうなっているんだろう」と思いましたよ。そこで3年か4年働いていました。
—学徒動員とはいえ、すごい場所で働かれていたんですね・・・。
それでも熱烈な軍国少年として、最後には日本は勝つんだろうと思っていました。旧制中学の3年か4年、青春を呉工廠で過ごしました。卒業式も工廠の中で挙げました。その後、広島工業専門学校(現広島大学工学部)に入学して応用化学を学びながら、今度は艦艇の船底に塗る塗料会社(現在の中国塗料)の工場で1945年4月から働いていました。
—8月6日はご自宅に戻られていらっしゃったんですね。
実家は爆心地から約1・3キロの場所にありました。8月6日は家にいたのは私と母だけなんです。私は2階にいて、母は1階にいて家がつぶされて、天井が落ちてきてそのすれすれを這って外に出た。
私は梁やガラスが降ってきて、訳も分からず無意識に外に逃げ出した。何が何やら見当がつかない状況で直撃弾をくらったと思いました。それから母と共に日赤病院が近かったのでその庭へ行ったら、被爆者がみんな押し寄せて大変な状況でした。そこで夕方まで意識を失って倒れていました。
その後運ばれた似島の救護所は、1万人以上の負傷者であふれていた。少年兵が遺体を孔(あな)に投げ入れていた。人間が粗大ごみのように捨てられるのは地獄絵図さながらで、おかしくなりそうで無感情の状態になりました。
ABCC(現在の放射線影響研究所)の医師だった人が広島教会にいる友人なんです。今年で92歳になる方です。その方とよく話をして、自分では分からないから、僕はどれくらい放射線を浴びたんですかと聞いたことがあります。
私は約1・3キロの地点で1日倒れていたので、かなりの放射線を浴びたわけですが、正確には分からない。ABCCも調査はするけれど、結果は秘密で被爆者には一切教えてくれなかったわけです。
約1・3キロの地点の放射線量は3千ミリシーベルト程度だと聞きました。福島の原発の作業員は100ミリシーベルト(その後250ミリシーベルトに変更[年間])なわけです。だから、かなりの被ばくをしたわけです。
でも、家の中とか壁に遮られたか、どこにいたかによっても違うから正確には分からない。現実に放射能の影響による急性白血病などは、戦後経験してきました。その中で「自分が生かされていることがどういう意味なのか?」、自分のアイデンティティーを問う哲学的な思索をするようになりました。
—キリスト教の洗礼を受けられたのは何がきっかけだったのですか?
たまたま私はキリスト教作家の倉田百三が伯父(母の兄)なんですね。倉田の影響も受けて親鸞かキリストかずいぶん迷って、キリスト教の洗礼を受けたのです。
倉田は終戦の2年前(1943年)に亡くなっているんですが、クリスチャンで『愛と認識との出発』とか、『出家とその弟子』という小説を読んで大きな影響を受けました。そして、被爆しながらも自分が生かされているのは、自分が平和を作り出す道具として生かされていることだという自覚を持つようになって、反核、反戦運動家となって活動してきました。
実は最初はカトリックの幟町教会で洗礼を受けたんですよ。でも、小さな自分ながらの宗教改革があってプロテスタントの日本基督教団の広島教会に移りました(笑)。
当時はスコラ神学のトマス・アクィナスの神学体系にどうも興味がわかなかったし、ローマ教皇無謬(むびゅう)説にも納得できなかったし、マリア崇拝が根本において聖書の中から出てこないし、だんだんと違和感が出てきたんです。
—当時のカトリックも第二バチカン公会議以前でだいぶ違ったんでしょうね。太平洋戦争で戦艦大和の搭乗員として戦って生き延び、戦後『戦艦大和ノ最期』を書いた作家の故吉田満さんも、戦後、カトリックの洗礼を受けて、その後プロテスタントに移られたと書いていました。
吉田満さんは高知の方ですね。『福音と世界』の前身だった雑誌に、1950年代のころ、吉田満さんと共に「カトリックから転向して」という特集があって、座談会をしたこともあります(笑)。
—いきなり息子さんが神学校に入るということで、ご両親は反対されなかったんですか?
両親は熱心な浄土真宗の信徒でしたけれど、反対はなかったですね。伯父の倉田がキリスト教で、『出家とその弟子』には親鸞の口からキリストが語る言葉が出てくるような小説ですから、東洋と西洋の美しい一致が書かれている。
京都に西田天香(1872~1968年)が始めた、一燈園という宗教的な生き方を求め、清貧に甘んじて人のために奉仕する道場のようなものがあって、倉田がそこにいて、父もそこに入っていたことがあるんですね。
街を托鉢して歩くときも、親鸞の書物と一緒に聖書を持って歩いていたというんですね。だから、宗派にこだわるということはなかった。そういう意味で、私が牧師になるということも、父は特に反対はなかったようですね。喜んで私を神学校に送り出し支えてくれました。
東京神学大学ではカール・バルトを中心に学びました。バルトを戦前に日本で初めて紹介したのは桑田秀延さんや滝沢克己さんという人たちなわけですが、そこでは自然神学に対しての「キリスト中心」という立場から神学が形成されていった、という側面が中心でした。
いろんな翻訳が最初のころに出て、「信仰的な神の言葉」教義学として紹介されたのですが、バルトがバルメン宣言を出してナチス・ドイツとどう抵抗していったかは伝えられなかったわけです。滝沢克己さんが九州大学でバルトを研究していたけれど一切触れていません。
バルメン宣言が1934年ですから、そのころドイツに留学してバルトの下で学んだ滝沢さんが知らないはずはないんですけれども。当時ドイツは日本の同盟国ですから、そういうことに触れると反戦運動家と見なされてしまうわけですから、知っていたとしても言えなかったんでしょうね。
でも、私たちが神学校に行っている間に、だんだんとそうではないと教えられるようになってきたわけです。私は信濃町教会に行っていましたが、そこには森岡巌さん(本名:森平太、『福音と世界』編集長を経て新教出版社社長を務めた)とか、村上伸君(牧師・神学者、ディートリヒ・ボンへッファーの翻訳、研究者として知られる)もいて、ボンへッファーを熱心に学び合ったんです。今でも手紙をよくくれますけれども。そういう中で育ったから、ボンへッファーを通してバルトを学び直して、教会闘争の問題に突き当たって勉強したわけです。
私は1949年に入学した東京神学大学の1期生で30人ほどでしたが、森野善右衛門(ボンへッファー研究者として知られる)や、浅見定雄(旧約学者)、熊沢義宣(組織神学者、ブルンナーなどの翻訳者として知られる)とかが同級生だったんです。
—戦後のプロテスタント神学を支えた錚々(そうそう)たる方たちですね・・・。
それで井上良雄先生(組織神学者、バルト研究者として知られる)がドイツ語の教師で、バルトを教会闘争ということを中心に学ばされましたね。東京神学大学では「パウロにおける罪の理解」というテーマで論文を書いたんだけれど、その後サンフランシスコの神学大学では「カール・バルトにおける教会と国家」という論文を書きました。
そういう意味で、最初はバルトの言葉を自然神学に対立する神中心の神学として勉強したけれど、僕自身はそこからナチス・ドイツとの抵抗運動の中で教会がどう戦ったかということを研究しました。
—それが教会に牧師として赴任されてからの信仰と、平和を訴える活動の原点なわけですね。最後に今の教会についてはどう思われていますか?
内部対立ばかりやっているので、日本基督教団自体に期待するものは何もないですね。私は東京神学大学卒業ですが、応援したり、献金したりしたこともありません。宗藤というやつは困ったやつだと思われているんじゃないでしょうか(笑)。
今の日本基督教団は私のほうからいえば、右に寄っていて戦責告白なんか口にもしない。礼典もクローズドで、それをしない人は出ていけというような立場になってしまっています。
でも、日本基督教団は戦後、戦責告白を出しているわけですから、その線に沿って教会が形成されるべきで、教会が預言者的な担い手になることを望んでいます。
教会という組織の中ではいろんな立場の人がいるから難しい問題ですけれどね。原発一つの問題をとっても、三菱重工で働いている人もいるわけですからけんかになる。大人の対応ができるようにはしていますけれども。
でも、核兵器反対については誰も反対する人はいないけれど、原発の問題になると立場の相違が出てきますから、牧師はそこのかじ取りが難しいと思っています。でも、やはり現実の問題に関心を持つ教会であってほしい。核の問題に対して関心を持つ教会であってほしいと思っています。
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