禁教下にあった江戸時代初期の1624年に長崎で処刑された2人のキリシタン、日本人・小市ディエゴと朝鮮人・カイヨを顕彰する「殉教顕彰碑」が17日、日本二十六聖人記念館(長崎県長崎市)の中庭に建立された。
この顕彰碑は昨年、日本信徒発見150年の記念として、長崎大司教区のヨセフ髙見三明大司教と韓国の大邱(テグ)大司教区のタデオ曺煥吉(チョ・ファンギル)大司教が、韓国の彫刻家ヨセフ催鐘泰(チェ・ジョンテ)氏に制作を依頼したもので、碑の裏側にはディエゴとカイヨについての解説文が日本語・韓国語・英語で記されている。17日の除幕・祝福式には、大邱からも約50人が参加した。
フランス人レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』に残された記録によると、ディエゴとカイヨが火あぶりによる殉教を遂げたのは1624年11月15日で、2人が出会ったのは牢獄の中であった。浦上地方の百姓であったディエゴは、ドミニコ会宣教師をかくまった宿主の罪に問われ投獄、朝鮮半島出身の朝鮮人カイヨは、イエズス会の神父を家に招き、キリシタン囚徒を慰問していたために投獄されることになったのだという。
このカイヨは、12歳の時から真理に対する情熱を抱き、自身の霊魂の救済を求めてあらゆる修行をしていた人物で、文禄の役の際に京都に連行され、まずはそこで住職となり、多くの人々の尊敬を集めていたのだという。
しかし、さらに高い真理を求めていたカイヨはその後、大阪の堺でイエズス会宣教師と出会って受洗し、日本人、朝鮮人の伝道師として神父らの働きを助けるようになった。1614年には、高山右近と共にフィリピンに追放されたが、2年後に日本に戻り「死ぬまで頑張る」と伝道を続けたために、投獄されるに至ったという。
牢獄で出会ったディエゴとカイヨは、出会いの最初から神の愛を互いに悟り、兄弟愛を深めながら、獄中においても役人に福音を語った。いよいよ処刑されるという知らせが届いた際には、カイヨは魂の喜びを表す詩を書き記し、2人は喜んで処刑地に向かったという。二十六聖人と同じ西坂の丘で、共に殉教を遂げたディエゴは41歳、カイヨは53歳だった。その灰は長崎港で海に捨てられたと記録に残されている。
1867年、ローマ教皇ピオ10世によって、カイヨは日本で殉教した他の204人と共に福者に列福されている。