モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)はキリスト教とどう違うのか。
最近、街でヘルメットをかぶり自転車に乗った2人組の白人の青年から、よく声を掛けられます。これがモルモン教の伝道師です。
モルモン教は、1820年以降、ジョセフ・スミス・ジュニア(1805~1844年、以下ジョセフ・スミス)が見たと称する幻と啓示から始まる。
このジョセフ・スミスに、父なる神とイエス・キリストが現れ、後に、バプテスマのヨハネや使徒ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、それにモーセやエリヤが現れて教えた、と主張する。一方で、魔術や占いにも凝り、隠されている宝の探索をもしていた。(この件で、州裁判所で、風紀を乱す振る舞いとして有罪判決を受けた)
1823年、ジョセフ・スミスは、天使モロナイから3度訪問を受け、モルモン書の存在と場所を教えられた、とする。このモルモン書は、聖書よりも権威ある書だと位置付けているが、内容は教義の書ではなく、先祖譚である。
それによると、BC600年ごろのバビロン捕囚時にエルサレムから逃れたリーハイというユダヤ人預言者と4人の息子、その家族20人足らずが船を造り、インド洋と太平洋を横断して中央アメリカに到着したが、この一族がAD400年ごろまでに増え広がり、繁栄し、神殿さえも建築した、とする。ところが、息子レーマンの子孫は暗い肌で邪悪、息子ニーファイの子孫は薄い肌で正義の民、後者に復活後のイエスが現れたと記す。
この二つの子孫が対立し、約千年の間、血腥(なまぐさ)い戦争を繰り返したが、AD421年ニューヨークの西クモラの丘の最後の戦いでレーマン人がニーファイ人を滅ぼした。このレーマン人の子孫が現代アメリカの原住民だと主張する。これらの文明と物語が金の板に書かれ、これを預言者モルモンが息子モロナイに託した後、死んだが、モロナイは逃げ、死ぬ前にクモラの丘に埋めたという。・・・(以上は、人物も出来事も、実在の証拠も痕跡も他の記録も何もない物語である[聖書についてオリエントに関連記録や証拠、背景資料などがたくさん残っているのと大違いだ]。マヤ遺跡がそれだと主張したがっているが、スミソニアン博物館は、アメリカ大陸考古学とモルモン書の物語を結び付けるものは何一つない、と宣言している)
1400年の後、天使モロナイによってこの金の板の存在がジョセフ・スミスに示され、それを彼が掘り起こしたというわけだ。彼は、この金の板に書かれていることを十数カ月かけて翻訳し、転記したところ、モロナイが再度訪れ、金の板を持ち去ったという。(これでは、真偽を確かめようがない)
やがて、ジョセフ・スミスに使徒たちが訪れ、神から彼に、アロン神権とメルキゼデク神権が与えられた、と告げる。これにより、地上に神の王国を建てるため、彼が神の代理人として振る舞うことができる、と主張し出した。彼はモルモンの大管長兼預言者となった。
それから14年間、ジョセフ・スミスは新しいエルサレムがアメリカで見つかると信じて、追随者たちをニューヨークから西へ、オハイオ、ミズーリ、イリノイへと導いた。その過程で、キリスト教会の中の初代教会回帰主義者が合流した。
1831~36年ごろ、新しい啓示があったとして、多重婚制(一夫多妻制)を始めた。1837年、経済的に困ったジョセフ・スミスは「カートランド安全協会銀行」を設立したが、倒産し、銀行詐欺容疑で逮捕状が出て、夜中に隣接州に逃げた。1838年、モルモン教会の名を「末日聖徒イエス・キリスト教会」に変えた。1842年、フリーメーソンのある地位に就いた。
1844年、ジョセフ・スミスはアメリカ大統領選挙に立候補し、選挙運動のためにモルモン宣教師を全国に送り出した。しかし、この動きは合衆国への反逆罪と認定され、逮捕され、ミシガン州カーセージの牢に入れられたが、その裁判中に、反モルモン主義者の一団により暗殺された。
1847年、後継者にブリガム・ヤング(1801~1877年)が選出された。(スミスの妻エマと息子ジョセフ3世は、別に、復元・末日聖徒イエス・キリスト教会[現:コミュニティー・オブ・クライスト]を立てた)
ヤングに率いられた集団は、ユタ準州ソルトレーク渓谷へ旅立った。ヤングはユタ準州の初代州知事に就任したが、それが神権政治で、多重婚制を推進したので、それをやめさせるため、合衆国政府は別に州知事を立て、軍隊を差し向けた。ところが、モルモン教徒はこれに従わず、一般の駅馬車を襲い、100人以上を惨殺するという事件(マウンテン・メドウの虐殺)が起こった。時あたかも南北戦争中だったが、リンカーン大統領は、モリル反重婚法を成立させ、多重婚は犯罪とされた。ヤングは20人以上の妻をめとり、56人の子を残した。
1880年、第3代の大管長兼預言者になったジョン・テイラーは、ヤングの路線を引き継いで、多重婚を奨励し、合衆国政府と決定的に対立した。そのため、法律に従わないモルモン教徒が何百人も投獄され、テイラーも逃亡し、1887年に死んだ。この年、合衆国は、モルモン教会を解散させる法律を作り、財産の差し押さえや投票権の剥奪をした。
1889年、第4代の大管長兼預言者になったウィルフォード・ウッドラフは、1890年に「神から多重婚制をやめよ」との啓示があったとし、1904年には、さらに進んで複数の妻をめとる者は破門にする、との方針を打ち出した。(ご都合主義的だ。宗教的真理が本当に真理だったのなら、法律に屈するのはおかしい。彼らの真理は本当の真理でなかったのだ。ならば、今、真理だと主張していることも状況によっていつ変わるかもしれない。このことを、モルモン教に心を寄せる者はよく承知しておかなければならない)
1978年には、預言者スペンサー・キンボールへの啓示により、黒人男性を神権から排除しないと宣言した。(それまでは、白人中心主義、アメリカ中心主義の教理であった)
モルモン教の聖典は四つある。
➀ 聖書《1611年版の欽定訳のみ》(聖書は原形が損なわれており、間違いを含み、神からの霊感の書ではないとする。欽定訳に限るのは、この宗教がアメリカの白人中心であることを示す。)
➁ モルモン書(上述の通り)
➂ 教義と聖約
➃ 高価な真珠(この中の《モーセ書》は、神がアダムやエノクと取り決めたもので、聖書から失われた教えだとするが、全く根拠のない捏造[ねつぞう]記事である。また、この中《アブラハム書》は、1835年にエジプト・テーベでイタリヤ人探検家が発見したパピルスの巻物をジョセフ・スミスが買い上げて翻訳したもので、アブラハムとヨセフの失われた著作であると主張する。しかし、この元のパピルスを、ジョセフ・スミスの未亡人エマがニューヨークのメトロポリタン美術館に売り払い、それが1966年に発見されたが、内容はエジプトの異教の葬儀に関する文書であることが判明した。つまり、アブラハム書などは全くのでっちあげであることが証明されたわけだ)
しかし、実は上述の四つの書よりも「大管長と預言者」に示された啓示と解釈が最上位の典拠であって、四つの聖典より優先するという。しかし、それは確立した典拠ではなく、明日には変わったり、捨てられたりする脆弱(ぜいじゃく)なものだ。多重婚制がそのよい例だ。要するに、モルモン教の典拠はご都合的なものやでっちあげに満ちている。
モルモン教の世界観は、「永遠の心あるいは英知が全ての人間、天使、神々の構成要素である。人間は神々と同じ種族、同じ存在に属する者であるが、ただ発達と成長と進歩の度合いが違うだけ。一時的な死すべき存在であるか否かの違いだけ。神である父と母は肉体を持っている。御父は昇栄した人、肉と骨を持った物理的な存在である。限界ある人間も限界のない神へと進歩することができる」とする。
この辺は、聖書の神観・人間観と根本的に異なる。
天国と地獄についてジョセフ・スミスは三つの天国(日の栄えの王国、月の栄えの王国、星の栄えの王国)と永遠の地獄を示している。救いには、神の恵みと人間の業(行いと儀式)の両方が必要だ、神殿は神の家であり、礼拝をし、神と聖なる契約を結ぶところであって、現代も必要だ、神はその民に神殿建築を命じてこられた。神殿の中では秘密の儀式があり、生者のためと死者のために代理して行う2種類の儀式がある。後者は、人が死んで後、霊の獄(外の暗闇)で罪を滅ぼし、キリストの福音を学び、地上のモルモン教徒がその人の代理として神殿儀式を行うなら、パラダイスに移れるようにするもの。
このような、モルモン教の歴史や教理、自分の信仰を正確に体系的に説明できない信徒が多い。その宣教師たちは、正式な訓練をあまり受けずに布教活動に出される。だから、この人たちに聞いても、信頼できる情報や洞察は与えてくれない。
ジョセフ・スミスとその追随者たちの言ったこと、したことは、嘘と空想、捏造と偽りに満ちています。このようなモルモン教から声を掛けられても、心を寄せないようにしましょう。
参考文献:『モルモン教とキリスト教はどう違うか』(アンドリュー・ジャクソン著、結城絵美子訳、いのちのことば社、2012年)
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