【CJC=東京】教皇フランシスコは1月20日、水曜恒例の一般接見の席上、毎年1月18日から25日の「聖パウロ回心の祝日」までの1週間に記念されるキリスト教一致祈祷週間にちなんで、あらゆるキリスト者の一致の根源である「洗礼」について話した。今年の一致祈祷週間のテーマは、ペトロの手紙一から取られた「私たちは皆神の慈しみの業を告げ知らせるために招かれている」という言葉が選ばれた。
バチカン放送が報じるところでは、教皇は、全てのキリスト者にとって、かけがえのない神からの恵みである「洗礼」について次のように述べた。
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ラトビアの首都リガの司教座大聖堂の真ん中に、12世紀の作といわれる素晴らしい洗礼盤があります。ラトビアが聖マイナルドの宣教によってキリスト教に改宗した頃にさかのぼるものです。この洗礼盤はラトビアにおけるカトリック、プロテスタント、そして正教会の全てのキリスト教徒たちの信仰の唯一の源泉を雄弁に物語っています。この源泉は私たち全てのキリスト教徒に共通の「洗礼」です。
聖ペトロはその第一書簡の中で初代教会の信者たちに、洗礼によって神からいただいた恵みと洗礼からくる義務とをしっかりと自覚するようにと書き送っています。私たちもこの一致祈祷週間に当たって、同じようにこの秘跡の意味をあらゆる分裂を乗り越えて共に再発見するよう招かれています。
何よりも先に、洗礼を共にするということは、私たちが皆罪人であり、救いと贖(あがな)いを必要としていること、またあらゆる悪から解放される必要もあるという事実を意味しています。聖ペトロはこのような負の側面をその書簡の中では「闇」と呼んでいます。「神はあなたたちをこの闇から引き出し、神の素晴らしい光の中に移してくれたのです」と聖ペトロは言っています。闇それは死の体験でもあります。死は洗礼において象徴的に表現されています。水の中に浸ることは死を表し、続いて水から上がるということはキリストにおける新しい命によみがえることを意味します。私たちキリスト者が唯一の洗礼を共にするというとき、それは私たち皆が、カトリックもプロテスタントも正教徒も、全てのキリスト者が闇から救い出され、慈しみに満ち溢れる生ける神との出会いに呼ばれているのだという同じ体験を共有しているということなのです。
残念ながら私たちは皆、エゴイズムの体験をも余儀なくされています。まさしくこのエゴイズムから分裂や軽蔑、閉鎖が生まれ出てくるのです。洗礼から再出発するということは、全ての人々にとって希望の泉である神の慈しみの泉を再び見いだすということにほかなりません。なぜなら誰一人として神の慈しみから除外される者はいないからです。