仏教の全体像を知っているか。
1. 釈迦の生涯
シャカ族出身のガウタマ・シッダールタ(サンスクリット語)、またはゴータマ・シッダータ(パーリ語)がBC624年(欧米説ではBC565年、日本の有力説ではBC463年)ヒマラヤ山麓に近いマガタ王国のルンビニ園で生まれた。父がそのカビラ城の城主。生後7日で母マヤが死に、後妻により育てられた。武術・学芸を究め、16歳でヤシュダラ姫と結婚し、1児ラーフラの父となったが、29歳の時、太子の位を捨て、妻子と別れ、城を出て、出家し、生・老・病・死の四苦の解決を求めて修行した。
それは苦行であったが、効果が得られず、中道が大切だと悟った。その後、ブッダガヤの奥の菩提樹の下で、輪廻(りんね)転生の恐ろしい因果関係からの脱出の道を悟った。時に35歳。2~3週間たって、鹿野苑に行き、説法を始め、以後、祇園精舎を拠点として遍歴遊行の旅で説法に努め、80歳まで生き、クシナガラの沙羅双樹(サラソウジュ)の下で入滅(死)した。
釈迦は大知恵者、大慈悲者の理想の人格者として死んだ。阿弥陀仏も大日如来もその他どんな超越者のことも唱えていない。人間についての覚者(かくしゃ)となった。そして、死後、弟子たちによって荼毘(だび、火葬)に付され、仏舎利(お骨)が八分され、各地のストゥーパ(仏塔)に葬られた。
釈迦について後世の仏典で種々の神通力が語られたり、神格化されたりするが、付加、装飾の産物にすぎない。釈迦は神でもなく、預言者でもなく、普通に生き、現実の人間として振る舞い、語り、死んだ。ただ、異常な知的・道徳的な修行の結果、人間についての真理・真相・神秘を洞察して、これを教えたのだ。
2. 仏陀とは
{仏(ぶつ)}とはサンスクリット語で「ブッダーBuddha」、中国語で「仏陀(ぶっだ)」、日本語では「仏(ほとけ)」である。その意味は「覚者」「真理を覚った者」である。「仏陀」は普通名詞で、例えば、哲学博士といった称号であって、たくさんいても不思議でない。これに対し、「釈迦」は、ガウタマ・シッダールタという名の固有名詞である。一人だけ。“釈迦牟尼(しゃかむに)”とか、”釈尊(しゃくそん)”とか、”世尊(せそん)”とかの尊称もある。
3. 釈迦の教え
釈迦は自分から一方的に教えを述べたのではなく、応病与薬とか対機説法とか、受ける者のケースとか能力に応じてふさわしい内容を説いた。その応えは、現実の状況を変えるものではなく、内的対処によって苦悩を取り去る類のものであった。現実の癒やしも死からのよみがえりもない。心の苦悩を見据え、心の在り方の理想のもとに、心の持ち方を変えるよう指導したのである。
従って、形而上学的な質問(世界は永遠か、空間的に無限か、身体と霊魂とは別ものか、覚者は死後に存在するか・・・)については「無記(むき)」(答えない)の態度を通した。その教えを天から啓示された真理だとは語らなかったし、超越的な、あるいは超能力的な存在や、宇宙を創造・維持する存在、また、祈祷や呪術、魔力を使う存在も出てこない。不思議で超越的なものを否定している。自ら経験したもの、観察した結果に基づく教えである。そこには、その主体である釈迦しかいない。「天上天下唯我独尊」、これが基本的な立場である。これは、宗教というより、無神論に立つ哲学であり、倫理である、といえる。
一方で、ウパニシャッド哲学の概念「梵(ぼん)」あるいは「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の思想を否定し、バラモン教の「因果輪廻」の思想とその来世観を超越した。
「私は輪廻を解脱(げだつ)した。もう、何にも、どこにも生まれ変わらない。私は後有(ごう)を受けず(死後の存在はない)」とし、一切の宿命的な考え方から解脱せよ、と教えた。釈迦の最大努力は、解脱・涅槃(ねはん)に向けられ、悲惨な輪廻転生(サンサーラ)から外れよ、ということであった。
4. 初期仏教
その基本思想は、(1)縁起、(2)四法印(しほういん)、(3)中道、(4)四聖諦、(5)三学、(6)涅槃にまとめられる。〔分かりやすい理性的な議論である。〕
(1)縁起とは、人生における全ての事柄が、それ自身存在するのでなく、必ず、他のものとの相関関係でのみ起こり、存在し、消滅することをいう。「相依性」ともいう。このような見方から人間存在の根源を見つめようとして、「十二縁起説」「業感(ごうかん)縁起」「如来蔵(にょらいぞう)縁起」「阿頼耶識(あらやしき)縁起」など多くの精密な思索が発展した。縁起は一切の固定的な(動かしがたい)存在を否定するが、これが空観につながる。
(2)四法印とは、仏教の根本的特徴を簡潔にまとめたもので、① 諸行無常、② 諸法無我(人間存在の根幹にひそむ執着・我執・自我を制御し、否定し、捨て去り、超越することをいう)、③ 一切皆苦、④ 涅槃寂静(無常が滅され、苦も滅された境地。煩悩の火が消えて心が静謐(せいひつ)になり、悟り・知恵を得た状態、苦悩に満ちた輪廻転生から解脱した安穏自在の境地である。
(3)中道とは、快楽と苦行、有と無、断絶と常住について一辺と他の辺をともに否定する。二辺からの超越であるとする。
(4)四聖諦とは、① 苦諦(人生は苦なりとの事実)、② 集諦(苦の原因は愛執という煩悩にあり、この煩悩は自己本位に源がある)、③ 滅諦(苦の原因たる愛執を滅ぼすこと〔解脱〕が必要だ。滅びし尽くした境地が無我、安穏自在の境地、涅槃である)、④ 道諦(修行の道についての真理、すなわち八つの正しい修行によらねばならない)
(5)三学とは、戒律、禅定、知恵の三つを学び、実践することが大事だ。
(6)涅槃とは、再生、転生の終了によって生じる平安・安穏の状態である。
一切の苦もなく、憂愁もなく、汚れもない。じりじりと身を焼く火が消されたときのすがすがしさ、快さ、清涼さに例えられる。そこへ到達することが解脱だと称した。
*ある時、弟子マールンクヤプッタが「涅槃とは至福の状態なのか、それとも虚無なのですか」と質問したところ、釈迦は、毒矢の例え話をして、四聖諦で満足せよと、まともに答えてない。
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正木弥(まさき・や)
1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。
【正木弥著書】
『なにゆえキリストの道なのか 〜ぶしつけな240の質問に答える〜 増補版』
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)