ジョナサン・ゴーブルの翻訳(日本語)
ギュツラフもベッテルハイムも日本上陸を願いながら、結局それが果たせませんでしたが、聖書の翻訳という大事業を行いました。やがて、日本も外国と通商することが決まり、横浜などの港に外国人が来るようになりました。また、横浜には外国人地区ができて、そこに住む外国人も増えました。まだ、江戸時代で、キリスト教は禁止されていましたので、宣教師の活動は公にはできませんでしたが、次々とアメリカを中心に、宣教師が入って来て、キリスト教を伝える準備を始めました。その中にジョナサン・ゴーブル(1827~96)という人がいました。
ゴーブルの、お父さんやお母さんはとても立派なクリスチャンでしたが、ゴーブル本人は乱暴者で、勉強もしないで、親に反抗していました。やがて働いているとき、雇い主とけんかをして、牢獄に入れられてしまいました。しかし、その間に、神様を信じるようになりました。牢獄から出てからは熱心に神様に従い、やがて外国に出掛けて宣教師になろうと決心しました。そのころ、日本と貿易をする交渉のため、ペリー提督の率いる蒸気船が日本に向かうことになりました。ゴーブルは、さっそくアメリカ海軍に応募して、この船に乗って日本に到着し、日本との交渉に当たったのでした。これが成功して、いったんアメリカに帰ると、ゴーブルは軍隊をやめ、すぐ船を下りることにして、宣教師の勉強をし、そしてまた日本にやって来ました。
彼も大変な苦労をしながら伝道しましたが、侍だけでなく、一般の人たちにイエス様のことを伝えようと一生懸命に頑張りました。そして、マタイによる福音書を分かりやすい言葉に翻訳し、江戸で版木を作り、印刷しました。本当は、当時はまだキリスト教は禁止されていましたので、日本ではキリスト教の本を印刷することはできなかったのですが、その版木屋が、キリスト教の本と知らずに印刷したようです。これが日本で出版された最初の聖書です。この聖書は全部、平仮名で書かれています。漢字は読める人が少なかったのですが、平仮名だったら、簡単だからみんなに読んでもらえるだろうと思ったからです。
それからゴーブルは、日本中、聖書を売って歩きました。ゴーブルの聖書を読んだ日本人はとても多かったのです。ゴーブルは、日本人の、しかも庶民のことをよく考えた人でしたので、神様のことを「だんなさん」と言ったり、賛美歌を三味線の伴奏で歌ったりしたそうですし、体の弱い人のために人力車を発明しました。
そのほかに、ヘボンとか、グリーンとか、たくさんの外国人の宣教師が日本人と協力しながら聖書を翻訳しました。それが、皆さんが今手にすることのできる日本語聖書の始まりです。
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浜島敏(はまじま・びん)
1937年、愛知県に生まれる。明治学院大学、同大学院修了。1968年4月、四国学院大学赴任。2004年3月同大学定年退職。現在、四国学院大学名誉教授。専攻は英語学、聖書翻訳研究。1974、5年には、英国内外聖書協会、大英図書館など、1995、6年にはロンドン大学、ヘブライ大学などにおいて資料収集と研究。2006年、日本聖書協会より、聖書事業功労者受賞。2014年7~9月、ロンドン日本語教会短期奉仕。神学博士。なお、聖書収集家として(現在約800点所蔵)、過去数回にわたり聖書展示会を行う。国際ギデオン協会会員。日本景教研究会会員。聖書の歴史、聖書翻訳に関する著書・翻訳書、論文多数。