神が願われる労働の目的と理由
(イ)労働は神の創造活動の一部
創世記1:26~27に「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とある。
この御言葉から大きく二つのことが分かる。一つは、神が人間を神に似るように、神のかたちに造られたということである。このことは、人間が霊を持つ存在、すなわち神と交わる存在として造られたということを意味する。もう一つは、神は人間を創造されたとき、人間に、海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのもの、地を這う全てのものを支配させること、すなわち人間が労働をすることをすでに定めておられたということである。
このことから労働は、神の創造の計画の中に含まれていたものであり、人間の創造と労働とは一体化されていたということが分かる。人間は本来労働するように造られたものであり、労働は神の創造の活動の一部として考えるべきものなのである。それ故、労働は神が定められた活動であり、人間に対する神の最初の目的にかなう根源的なものであるということができる。
(ロ)労働は神を礼拝すること
人間が霊を持ち神と交わる存在として、そして同時に、労働をする存在として造られたことは、人間は本来霊によって神と交わり、神の御心に従いつつ労働を行う存在であるということ、それ故、労働には神を礼拝するという目的があることが分かる。旧約聖書が書かれたヘブル語の労働を意味する「アボダー」という言葉は、礼拝とか奉仕という意味を持っている。また、新約聖書で礼拝を表す言葉の一つである「ラトレイア」は、もともと世俗のギリシャ語で賃金を得るための労働を意味した。これらの言葉からも、労働と礼拝とが密接に結び付いていることが分かる。
エデンの園における罪なきアダムの行いにおいては、労働と礼拝の区別はなかった。労働は神礼拝に直結しており、礼拝をささげることが彼らの労働(生活)そのものであり、労働には厳粛なものがあった。
(ハ)労働は神のための奉仕
創世記1:28に「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ』」とある。
神はご自身のかたちに創造された人間を祝福された。そして人間に神が造られた全ての被造物を支配することを命じられた。神は人間に、この地を治め、良く利用するように支配権をお与えになったのである。それゆえ意識するとしないとを問わず、全ての人間のためにこの世界を住み心地の良い場所にすることは、被造物を愛しておられる創造主なる神への奉仕なのである。すなわち、労働は神のための奉仕ということができる。
(ニ)労働は世界を神の御心に沿って管理すること
創世記2:15には「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」とある。神は創造の世界の中心に人間を置き、エデンの園を耕させ、守らせたことが分かる。この御言葉からも、人間は本来他の被造物の中で、神を代表し、神の御旨に従って地を治める者とされたことが分かる。
神が造られたものは、人も草も木も動物も全て良いものであった。神は人に豊かに恵まれた世界の管理を任された。神は創造した世の中を人間に委ね、「耕すこと」と「守ること」を私たちの使命とされた。いわゆる世界管理の使命である。ここで支配するとは、神に代わって世界を治めるということである。世界を治めるように命じられた人間が、具体的に何をしたか聖書をたどってみると、神が創造されたものに名前を付けたと記されている。
創世記2:19に「神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった」とある通りである。人間が神の被造物全てに名を付けたことは、人間が被造物一つ一つを認め、受け入れ、その本質を理解し、それぞれの限界を画し、支配するということを示唆している。
また、耕すとは作物の成長を促すことである。従って、神が創造された世界を治め、耕すという人間の使命は、世界の全てのものに神が意図されていたそれぞれの本質を実現させ、しかも全体がお互いに侵害し合わずに、調和のとれた秩序を保ち、しかもその全てが生き生きと成長・発展するようにすること、つまり世界を神の御心に沿って管理するということである。
支配することは、本来神に属することであり、命を成長させるのも神のみがなし得ることである。従って、世界を管理するということは、本来神のなさることを代わってさせていただくという光栄に満ちた労働なのである。神はこのように人間にこの世の管理を委ねられたが、私たちはこの光栄ある任務を、信仰によって受け止める必要がある。
(ホ)労働は人に対する奉仕
創世記1:27に「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とある。また、創世記2:18には「神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう』」とある。これらのことから、神は人が労働を一人でするようにはされなかったことが分かる。神は、初めから人に助け手を与えられた。
このことから、労働は互いに助け合ってなすべきであること、すなわち労働は人に対する奉仕であるということが分かる。神に対する奉仕は、同時に隣人に対する奉仕でもあり、この二つの間には深い内的な関係がある。私たちは、人としていつも隣人に奉仕しなければならない。
パウロは、主に対する労苦と仲間のための労苦の直接の関係について、使徒20:34~35で次のように語っている、「あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです」。このように、労働は人に対する奉仕でもある。
(ヘ)労働は、自分や家族の必要のために備えること
Ⅱテサロニケ3:12に「こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」とあり、Ⅰテサロニケ4:11~12には「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです」とある。このように労働は、自分や家族の必要のために備えるものでもある。
以上見てきたように、労働は神の創造活動の一部であること、そして神が願われる労働には、神を礼拝すること、神のために奉仕すること、世界を神の御心に沿って管理すること、人間のために奉仕すること、自分や家族の必要のために備えること、等の目的があることが分かる。
大切なことは、これら六つの目的には優先順位があるということである。この優先順位が狂う時に問題が生じる。例えば、六番目の〝労働は自分や家族の必要のために備えること〟が第一優先となり、本来一番目であるべき〝労働は神の創造活動の一部〟が最後になるような時に、神の特別恩恵を受けることは困難となる。また、労働におけるいろいろな問題も起こってくる。ビジネスマンの方々が、労働において神の特別恩恵を受けたいと願うなら、この優先順位をきちんと守ることが必要なのである。
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(参考並びに引用資料)
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門谷晥一(かどたに・かんいち)
1943年生まれ。東京大学工学部大学院修士課程卒業。米国ミネソタ州立大学工学部大学院にてPh.D.(工学博士)取得。小松製作所研究本部首席技監(役員待遇理事)などを歴任。2006年、関西聖書学院本科卒業。神奈川県厚木市にて妻と共に自宅にて教会の開拓開始。アガペコミュニティーチャーチ牧師。著書に『ビジネスマンから牧師への祝福された道―今、見えてきた大切なこと―』(イーグレープ)。