漢字の原型とされる甲骨文字(こうこつもじ)の世界的な研究者で、日中国交回復に尽力した中国人のクリスチャン欧陽可亮(おうようかりょう)の特別展「望月圓明 欧陽可亮の生涯と甲骨文遺墨展」が9月25日から10月10日まで、神戸華僑歴史博物館(神戸市)で開催された。
甲骨文字(亀甲文字)は、契文(けいぶん)とも呼ばれ亀の甲羅や獣の骨に文字を彫刻したもので、紀元前14世紀ごろから、紀元前12世紀の殷(商)の時代にわたって使用され、現在の漢字の源とされている。
欧陽可亮(1918~92)は、唐の書家として知られる欧陽詢(おうようじゅん)から44代目、宋代の文人欧陽修(おうようしゅう)から24代目の子孫で、1918年北京生まれ。父の欧陽庚(おうようこう)は、清朝の第一回官費留学生として米国に派遣され、外交官として清・中華民国に仕えた。可亮は、3歳で甲骨文字研究の権威、王国維から手ほどきを受け、9歳からは北京の西山石居漢文塾で、清朝のラストエンペラー愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)や弟の溥傑(ふけつ)と共に学び、溥儀の英語の教師で甲骨文字の研究者羅振玉から甲骨文字を学んだ。
その後、上海の東亜同文書院大学の講師を経て終戦後台湾に渡り、1954年からは、終戦で中断した『中日大辞典』の編纂を完成させるため、日本に移住し、ICU(国際基督教大学)や一橋大学、拓殖大学で中国語を教えながら、編纂作業に取り組むことになった。また愛知大学嘱託講師だった妻の張禄澤に協力を求め、東京・豊橋間を往復しながら、12年かけて『中日大辞典』を完成させた。このほかにも、倉石武四郎著『岩波中国語辞典』(1963年初版)などの編纂にも関わった。
甲骨文字研究
甲骨文字研究を続ける中で1800文字を解読、1980年には脳出血で倒れ右半身不随となったが、左手で書を書きながら亡くなるまで研究を続けた。甲骨文字が発掘された中国河南省安陽の殷墟(殷の時代の都の遺跡)を訪ねたこともあるという。殷墟では1928年から甲骨文字の発掘が進んだが日中戦争で中断され、資料は世界各国に散逸してしまい長く研究は停滞してしまった。そこで可亮は各国の資料と研究者が集まっての国際的な研究を提唱したという。(殷墟は2007年、世界遺産に登録される)。その功績から、2012年には没後20周忌を記念して、中国国家図書館と北京師範大学図書館で「欧陽可亮没後20周忌展」が行われた。
次女の関登美子(旧姓:欧陽效平)さんは、「父は3歳で甲骨文字に出会ってから、3千年の歴史と刻まれた文字の美しさに底知れぬ魅力を感じて研究を続けました。人は、愛し対話を求め、時空を越えて伝える道具として"文字"を発明したと考えていました」と語る。
日中国交回復に尽力
欧陽家は、欧陽庚が清の第1回官費留学生として米国イェール大学留学時代にキリスト教の洗礼を受けて、以来3代のクリスチャン一家だ。欧陽庚は、やはりクリスチャンだった孫文がアメリカに留学した際に、保証人になったこともあるという。可亮の少年時代、父が外交官だった欧陽家には、羅振玉、王国維、そして後に中華人民共和国外相となった周恩来などが出入りしており、その頃の交流と人脈が後の日中国交回復交渉に役立つことになったという。
可亮が終戦で中断した『中日大辞典』の編纂で1954年に来日した当時、吉田茂総理は、外務省研修所の充実を検討していた。そこで駐台北日本公使の清水董三が吉田茂に、可亮以外に担える人間はいないと進言し、以後外務省研修所で20年間外交官の教育に当たった。元外交官の加藤紘一氏もその一人だ。その経験と人脈をいかし、1972年の日中国交回復交渉にも陰で尽力したという。
「生涯、日中友好のために人生を送った父の気持ちがよく表れているのがこれです」と関さんが甲骨文字で書かれた詩を指し示した。
中日無斗争 子孫和楽先
萬年伝友好 百世利長延
甲骨文字友好詩
(「三千年前中日二字本為一字合文」1957年)
日本と中国の文字は、元をたどれば同じ文字を使うのであり、子孫の代まで戦争をすることなく友好を築き合うようにという思いが込められている。
欧陽家のキリスト教信仰
両親がクリスチャンで幼児洗礼を受けた欧陽可亮は、生涯篤いキリスト教信仰を持ち、日本に移住後はICU教会に20年間通い続けた。関さんも同大学を卒業、親子二代のICU教会員だ。
「親子でICU教会に通っていた時は、組織神学の研究者としても有名な古屋安雄先生が牧師で"君も児童心理学を勉強しているなら教会で子どもとプラクシスで接しなさい"と言われて、日曜学校で子どもを教えたんですよ」と当時を思い出して、ほほ笑む。
「ICUは、終戦後、日本が再び軍部の言いなりにならないよう、民主主義を育てるためにキリスト教のリベラルアーツの精神にのっとって、民主主義教育、社会福祉、国際問題の3本を柱にできた学校です。イエス・キリストの愛を見つめ、自分で考え、何をするかを自覚しながら学ぶことを身につけさせられました。父もクリスチャンとしてICUという大学を本当に愛していました」と語りながら、関さんが可亮の遺墨を案内してくれた。
為得人(人を得るために)
降馬棚(馬小屋に生れたイエス様)
宝血洗醜衍(あなたの尊い血で私の醜い行いを洗い流し)
求告即永生(私に永遠の命を与えてください)
集殷商亀甲文(殷=商の時代=の亀甲文字を集めた)
題耶蘇像賛(題「耶蘇=イエス・キリスト=賛美」)
表題に「キリスト賛美」と甲骨文字で表記した詩作である。
もう一つが「達磨一葦渡長江」(1989年)という絵だ。
達磨が葦(あし)の葉に乗り長江を渡ると書かれており、顔はイエス・キリストが、足元には「心」という字が書かれている。一人のキリスト者として中国から日本に渡り、両国の理解と交流に人生をささげた自分の中にある信仰が表れている。
関さんは「初めは中日事典をつくるために招かれて日本の大学で若い学生を教え、外務省で日中外交に携わる若い外交官を教えるようになった。そして日中国交回復にも尽力した。父の人生は、イエス様に導かれ日本で与えられた仕事をしてきたのだと思います。父には国境はなかったのだと思います」
心残り
関さんは一つだけ心残りがあるという。可亮の残した膨大な遺筆のうちの多くが、晩年ある女性によって持ち出されてしまった。現在は立命館大学の白川静研究所に所蔵され、見ることができなくなってしまっており、その返還を巡って訴訟となっている。
「3歳で甲骨文字と出会い、日中国交回復に尽力した父の業績をきちんと評価できるようにしてほしいのです。そのために今は悲しい思いがありますが、最後に『ハレルヤ』といえる日が必ず来ると思います」