日本宗教学会の第74回学術大会が9月4日から6日まで、創価大学(東京都八王子市)で開催された。宗教関係では国内最大の学会で、初日は公開シンポジウムが行われ、2日目、3日目は、宗教学、宗教史学、宗教哲学、民俗学、心理学、医療、震災、葬送、仏教、神道、新宗教、宗教と教育、ジェンダー、アジア、アフリカなど、さまざまな分野の14の部会に分かれ、264の個人の研究発表と16のパネル発表が行われた。
初日の4日には、公開シンポジウム「宗教の未来 宗教学の未来」が行われ、宗教社会学者のホセ・カサノヴァ氏(米ジョージタウン大学教授)と、元国際宗教社会学会会長のジェイムズ・ベックフォード氏(英ウォーリック大学名誉教授)が基調講演を行った。『近代世界の公共宗教』(1997年)などの著作があるホセ・カサノヴァ氏は、「グローバルな世俗化とグローバルな宗教諸派の共生、絡み合う二つの道」と題して講演した。
西洋キリスト教の「宗教」と「世俗」の区分がグローバル化
カサノヴァ氏はまず、西洋における「宗教」と「世俗」の分化という過程は、実は西洋キリスト教の発展過程の、独特で特殊な歴史によるものであるにもかかわらず、それが近代的な社会発展の「一般的」で「普遍的」な過程とみなされてしまうと指摘した。
そもそも「宗教」と「世俗」という二項対立的な言葉が、西方キリスト教神学に特有なカテゴリーであり、東方のキリスト教にも、非キリスト教文化にも存在しないという。この二項対立的な空間区分は、まず模範的な「宗教的」生活としてキリスト教の修道生活が興隆し、その後の教会法によって、脱世間的な宗教的(religious)聖職者(修道聖職者)と、在俗(secular)聖職者・一般の平信徒に教会内部が二分化されたことによって生まれたものだ、とカサノヴァ氏は強調した。
ほとんどの非西洋文化には、近代西洋の「宗教」というカテゴリーを簡単に翻訳できる語がなく、日本語の「宗教」も、中国語の「宗教(zongjiao)」も新語として発明され、外国からもたらされた新奇な現象としてみなされてきたという。諸文明では多様な方法で、「聖」と「俗」、「超越」と「内在」、「宗教」と「世俗」の線引きを行っていたが、西洋に由来する世俗化が、植民地拡張の過程においてグローバル化されていったと述べた。
宗派体制化、欧州の植民地拡張が始まった「1492年」
そして、重要な年として1492年を挙げた。この年、多くのカトリックの王たちが、ユダヤ教徒とイスラム教徒をスペインから追放し、宗教的に均一な領域を作り出す決定をした。このことで、近世における、国家、民族、国民の宗派体制化という、欧州全土にわたる過程が開始された。
欧州ではこの後、「領主の宗教が領民の宗教」という原則に基づいたウェストファリア的国家制が形成され、均質なプロテスタント地域の北部、均質なカトリック地域の南部、そして中間にあるオランダ、ドイツ、スイスという3つの宗派社会が誕生した。この体制は20世紀まで続き、人々が教会に行かなくなるという形で、いわば均質的な宗教から均質的な世俗へと進んだ。世俗とは「宗教後」に到来するものと理解され、近代的な「発展段階意識」が、この理解の中に本質的に組み込まれている、とカサノヴァ氏は説明した。
もう一方、この年には、コロンブスによって「新大陸」が発見され、欧州によるグローバルな規模の植民地拡張が始まった。日本と中国では、近代化を担ったエリートと国家が、強力な世俗主義的プロジェクトを進めたが、欧州以外の多くの世界では、そのような発展段階意識は存在せず、もっと緩やかな世俗化を伴う宗教の多元化と、宗教・世俗の多元化が進んだ。
イエズス会の異文化・異宗教との出会いと適応
また、この中で重要な論点として、カトリックの宣教師と非西洋人・文化との出会いに立ち戻る必要があるとして、イエズス会のカトリック宣教について詳述した。イエズス会のカトリック宣教には、当然ながら「真の普遍的な信仰のもとに全世界を改宗させる」という覇権主義的な目的を伴っていたが、同時に実践においては、今日、「土着文化の受容」と呼ぶ形態を取っていたという事実がある。
つまり、イエズス会士たちは、その活動や方法に多くの問題を含んでいながらも、異文化、異宗教との出会いを開始し、文化的多元主義に開かれていたということであり、それは近代的な「宗教」と「文化」の分化や、「キリスト教」と欧州の世俗化文化である「啓蒙主義」とが分離する過程に対して、確かな寄与をなした。グローバルな宗教的多元化過程の成立は、禁制の植民地化と宣教活動がもたらした出会いにまでさかのぼるものであり、それは西洋の世俗的近代や、19世紀西洋の植民地的・資本主義的膨張が成功を収めるよりもずっと以前に存在した、とカサノヴァ氏は指摘した。
全てを統合し包括するカテゴリーとしての「宗教」に
また、世界の脱呪術化は、意識の脱呪術化や宗教の衰退、呪術の終焉(しゅうえん)を必ずもたらすのではなく、それどころか、さまざまな形態の再呪術化と両立可能だ、とカサノヴァ氏は語った。
その上で、カサノヴァ氏は、「宗教」というカテゴリーは、個人的なものであれ、集合的なものであれ、またあらゆる種類のさまざまな「宗教的」経験、あらゆる種類の呪術的、儀礼的、秘跡的な実践、あらゆる種類の共同的、教会的、制度的組織であれ、また宗教的ナショナリズムの形であれ、世俗的な市民宗教の形であれ、グローバルな規模での人権の神聖化の形であれ、あらゆる種類の社会的なものの神聖化の過程であれ、これら全てを統合し、包含する役割を果たさなければならないと語った。
グローバルな規模で「脱私事化」する宗教
そして最後に、宗教がグローバルな規模で「脱私事化」することも強調した。
カサノヴァ氏は、「宗教」と「政治」の間に分離の壁を立てる試みを、民主主義それ自体のために正当化することはできず、「宗教の自由な実践」それ自体を制限することは、宗教的な市民が、市民権や政治的権利を自由に行使することを制限することになり、究極的には民主的な市民社会の活力を侵食することになると語った。
特定の宗教的言説や特定の宗教的実践は好ましくないものである可能性があり、何らかの民主的、自由主義的な根拠から、法的な禁止を被る可能性があるが、それが「宗教的」だというそれだけの理由からであってはならない、とカサノヴァ氏は指摘した。
現在、世界的な現象として、宗教的な団体、組織、運動が、私的な宗教の領域に留められることを拒み、公共領域や政治に参加するようになっている。それは、「宗教」と「世俗」という分類システムに対して、あらゆる場所で異議申し立てが行われ続けていることを意味している。カサノヴァ氏はその例として、米国のプロテスタント原理主義、ユダヤ教原理主義、イスラム教原理主義、ヒンズー教原理主義などを挙げ、これらいわゆる宗教的原理主義運動は、それぞれが、宗教的なものと世俗的なものの間の、ある特殊な境界線の引き方に対する、ある特殊な反応であり、グローバル化の過程がもたらした境界線の引き直しの機会をつかもうとする試みでもあり、反動的なだけではなく、先進的でもあると語った。
そして最後に、時間と場所を問わず、宗教的なものと世俗的なものは、社会政治的な闘争と文化の政治を通じて、相互的に形成されるものだと締めくくった。(続く)
■ 日本宗教学会第74回学術大会:(1)(2)