日本人の精神をキリスト教と比較させて論じた『武士道』などの著作で知られ、国際連盟事務次長を務め、国際的にも活躍した新渡戸稲造(1862~1933)の遺品や蔵書などを展示する、青森県の十和田市立新渡戸記念館(新渡戸常憲館長)が存続をめぐって揺れている。
同館は、新渡戸稲造の蔵書の寄贈を受けた新渡戸文庫のあった同市の敷地に、1965年に設立され、盛岡藩士だった新渡戸の祖父、傳(つとう)が開拓した郷土の歴史や、新渡戸の遺品や蔵書、直筆の書、業績をめぐる展示など、資料約8000点が展示されている。
しかし今年4月、市から建物の耐震強度不足を指摘され、現在は休館状態となっている。河北新報など地元紙の報道によると、市は6月末で廃館とし、館員全員を解雇、今年度中に建物を解体する方針を示しており、12日から始まる市議会で、同館を廃止する条例を提出する姿勢を示している。
これに対して同館は、性急な判断で十分な協議や説明が行われていないとして、耐震性の再調査や協議の継続を訴えている。
同館ホームページによると、所蔵資料のほとんどが新渡戸家からの寄託資料であり、これまで市は、資料の保有者である新渡戸家から寄託を受け、同館で保存展示活用をしてきた。しかし、休館以後、市からは「市の指定有形文化財となっている新渡戸家所有の資料を市に寄贈すれば、何らかの保存処置を講ずるが、寄贈しなければ保存することはできない」と通告されたという。また、館内の展示ケースなども市の備品であるため、7月前には搬出するとしており、展示ケースから出した資料については、市の所有物でないものは段ボール箱にでも入れて床に置いておけばよいと通告されたとして、同館は、文化財や資料の保存に対して懸念を訴えている。
また、同館では、6月1日に「新渡戸記念館だより」に、文化遺産国際協力コンソーシアム副会長の前田耕作氏(和光大学名誉教授)の「ふたたび新渡戸記念館の行方を憂う!」と題した文章を掲載しようとしたところ、市の担当者から、「市を批判する内容、市の方針と異なる内容で、事実誤認があり、市の予算で印刷発行することはできない」と、全文削除を要求され、発行ができない状態となっているという。
本紙の電話取材に対し、市観光推進課は、「『新渡戸記念館だより』の文章については、『十和田の労苦と智恵の堆積の結実を事実上放棄するともいえる現況』『歴史の源泉の回復不能なまでの放置に繋(つな)がりかねません』『文化遺産の軽視と放棄』という記述があり、これは市の目指している方針ではなく、このような事実誤認の記述がある文章を市の予算を使った文書に掲載することはできないと判断した。廃館になった場合は電気代を払う財源はなく、また市の所有でないものに市として税金を使うわけにはいかない。廃館後の展示代替施設などについてはまだ具体策はない。いずれにしろ、12日から始まる市議会での推移をもって判断したい」と答えた。
同館の学芸員は、「新渡戸記念館のある十和田市一帯の三本木原は、南部盛岡藩士だった稲造の祖父、新渡戸傳が中心となり開拓されてきた土地(稲造の「稲」の字も、開拓した土地で初めて収穫された稲にちなんで命名された)。太平洋の架け橋として活躍した新渡戸のルーツでもある土地の記念館を、何とか存続させてほしい」と訴えている。
新渡戸稲造は、1862年陸奥国岩手郡(現在の盛岡市)生まれ。札幌農学校(現在の北海道大学)の二期生として学び、キリスト教に興味を持ち、同期の内村鑑三、宮部金吾らと共に、函館にいたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けた(洗礼名はパウロ)。その後、帝国大学(現在の東京大学)を経て、米国に留学。クエーカー派の集会に通い始め会員となり、後に妻となるメアリー・エルキントン(日本名:新渡戸万里子)と出会った。ドイツ留学などを経て、帰国。台湾総督府勤務を経て、京都帝国大学(現在の京都大学)など多くの学校で教鞭を執り、旧制の第一高等学校校長として、矢内原忠雄、南原繁、塚本虎二など多くの教育者、聖書学者に影響を与えた。1920年に国際連盟が結成されると、事務次長として国際的にも活躍した。
1900年に英語で執筆した『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan)は、キリスト教徒であった新渡戸が、キリスト教や西洋文明と比較させながら日本人の精神性を論じた著作として、十数カ国語に翻訳され、セオドア・ルーズベルト、ジョン・F・ケネディら米大統領を含め、海外で多く読まれたといわれている。