元僧侶で現在は単立・のぞみ教会(埼玉県川口市)の牧師である松岡広和氏が4月17日、千葉クリスチャンセンター(千葉市)で開かれたマイ・ライフ・ジーザス千葉集会でメッセージを伝えた。一時は副住職まで務めたが、キリスト教信仰を持ち、家族に反対されながらも牧師として献身するにまで至った証しを語った。
松岡氏は、東京・日暮里の出身。徳川幕府によって「寺町」として形成され、今でも多くの寺が残る場所だ。その日暮里にある寺の次男として生れた松岡氏。兄は現在でもその寺の住職を務めている。兄が寺を継ぐのは分かっていたものの、「自分も立派な僧侶になりたい」と志ざし、天台宗の大学へ入学。入学後すぐに頭を坊主にし、“お坊さん”としての勤めが始まった。
大学在学中に父親が病に倒れて亡くなり、兄は若くして住職に。松岡氏は副住職として寺を支えた。大学は主席で卒業。その頃は、「お釈迦様は人生の苦しみの解決法を説いた人」だと考えていた。煩悩(ぼんのう)を断ち切れば、人間は苦しみから解放されると信じ、仏教にこそ真理があると確信、卒業後は大学院に進んだ。
そこで韓国から来た僧侶と知り合いになった。やがて、韓国の仏教に興味を持ち、韓国へ留学。海外生活は夢でもあった。当時は経済的にも満たされていたという。しかし、次第に「お金があっても、夢がかなっても何かむなしい。何のために自分は生きているのだろう?」と思うようになった。
クリスマスが近づき、友人に誘われて教会へ行った。「ちょっと教会というところをのぞいて見るだけのつもりだった」と振り返る。軽い気持ちで日曜日の礼拝に参加したが、「次の日曜日もぜひ礼拝へ」と声を掛けられ、なんとなく次の日曜日も礼拝へ行った。そうしているうちに、青年会の聖書勉強会へ出ることになった。この時もただ、聖書と韓国語の勉強のつもりで参加した。
聖書を勉強して3カ月。「神様がいるなら信じてみたい」と思い始めた。自分の罪のために十字架にかかってくださったイエスを信じたいが、「そもそも、罪ってなんだ?」と疑問に思っていた。
そんな時、青年会で証しをする順番が巡ってきた。テーマは「悔い改めについて」。あまり気は進まなかったが、証しのために文を書いた。何度か見直した後、皆の前で話を始めると、なぜか後から後からと涙がこぼれ、気が付くと「神様、僕を赦してください」と何度も叫んでいた。突っ伏せて号泣した後、前を見ると、世界が違って見えた。
そして、1990年3月11日に受洗。周囲からは、「あれ、お坊さんだったのよね?」と不思議がられた。「神様は私たちと共にいてくださる。生きる意味は、イエス様にあるのだ」と毎日が喜びに満ちた。
帰国後、寺を継いだ兄、母、そして妹に報告しなければいけない。松岡氏がイエスを救い主として受け入れた話をすると、皆が猛反対した。「どうしたんだ? だまされているんだろう」という心配からか、皆、怒りをあらわにした。
副住職を辞めた松岡氏は、しばらく一般の会社員として働いていたが、献身を決意。神学校へ行って牧師になった。メッセージ最後には、ローマの信徒への手紙10章13節の「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」を読み上げ、「元お坊さんでも、悔い改め、主の御名を呼び求めれば、救われるのです。兄は寺の住職、私は教会の牧師。神様の『選び』ですね」と話した。
マイ・ライフ・ジーザス千葉集会は、毎月第3金曜日に千葉クリスチャンセンターの6階チャペルで開かれている。各方面から牧師と賛美ゲストを招く礼拝形式の集会として昨年5周年を迎えた。この日は、日本基督教団板橋泉教会の牧師夫人でゴスペル声楽家でもあるエステル・あきこさんが賛美ゲストとして出演。「女が自分の乳のみ子を忘れるであろうか」(イザヤ49:15)から「希望の光り」を賛美した。
小さい頃から歌が大好きだったというエステルさんは、「歌が大好き」という理由だけで音楽大学に進学。在学中は結婚式場で4年間、聖歌隊のアルバイトをした。「愛の賛歌」と呼ばれ、結婚式でよく引用される新約聖書のコリントの信徒への手紙一13章の箇所は1カ月に何度も聞いたという。
大学卒業後は教職に就くが、うつ病を発症。その時英会話を学んでいた教会で、十字架の赦しを聞き、やがて受洗。現在は声楽家として、また牧師夫人として忙しくも祝福に満ちた日々を送っているという。集会が行われたこの日も、エステルさんの美しい歌声を聴こうと会場を訪れるファンの姿もあった。
次回のマイ・ライフ・ジーザス千葉集会は5月15日(金)午後2時から。クロスロード・インターナショナル葛西教会牧師の松田健太郎氏がメッセンジャーを務め、賛美ゲストに Samuelle さんを迎える予定。