第73回日本基督教団沖縄教区総会(開催日:2014年5月25, 26日)議長総括全文
【教区規則変更(改正)について】
沖縄教区は、沖縄キリスト教団にさかのぼる歴史を検証しながら教区の実情を踏まえつつ、教区内諸教会諸伝道所の考えや意志が十分反映されるような教区形成をしたいと強く望んで歩んできました。第68回沖縄教区総会(2011. 5. 29, 30)で伝道所の信徒代表も教区総会正議員になれるようにと教区規則変更を決議しました。沖縄教区は、当該教区規則変更の承認申請を行いましたが、日本基督教団は教憲教規の表面的狭義的解釈と形式処理だけで不承認(2012. 2. 15)としました。沖縄教区は、教区規則改正「伝道所の信徒を教区総会の正議員にする」推進作業委員会を立ち上げ丁寧な作業を進めつつ、不承認の理由と再考を求めて質問状(2013. 3. 17)を送りましたが、日本基督教団は教憲教規に照らして不承認が妥当だと返答(2013. 5. 17)してきました。
第69回沖縄教区総会(2012. 5. 27, 28)では開催の仕方の是非について冒頭から紛糾したことは、出席、傍聴された一人一人には記憶に新しいことと思います。
当該推進作業委員会は、今後の取り組みを検討し、沖縄教区の強いられた歴史や合同の際、日本基督教団の基準に自らを合わせて、第一種を第二種に、教会を伝道所にしてしまったことの反省と検証を重ねながら作業しました。当該推進作業委員会は、教区規則変更申請を不承認とした日本基督教団の姿勢や教憲教規の表面的狭義的解釈の妥当性と形式的処理の是非を問うため、全教区の教会種別と現状の調査を行いました。結果、全国には教憲教規に規定する設置基準を満たさない第一種また第二種教会が多数あること、信徒数名でも第一種あるいは第二種教会であれば教区総会に信徒正議員を出せるという既得権が行使されていること、しかもこの状態は長期化していること、日本基督教団はこのことについて何ら改善策を講じたことがないことなど、日本基督教団の実状が認識されました(資料作成)。このような実体乖離(かいり)状態を放任したままの教団でありながら、しかも、合同後も有効であるはずの日本基督教団と沖縄キリスト教団の間に締結された合同議定書の付属文書につづられた「協議の精神」を一切考慮せずに、ただ教憲教規の表面的狭義的解釈と形式的手続きのみで不承認と結論づけた日本基督教団(信仰職制委員会や常議員会、教団総会議長)の対応は、不誠実だと考えざるをえません。
沖縄教区は、今日的認識として、信仰的にも神学的にも、教会種別の必然性や必要性を見出せないと判断します。ゆえに、教会種別の必然性の有無を問うような神学的作業を一切しないままにきた日本基督教団と各教区の諸教会諸伝道所に対して、このことへの問題提起を行うことが大きな課題となりました。
『日本基督教団年鑑2013年』によれば、第二種教会の40パーセントが設立基準を下まわる状態にあることは、伝道所の教職や信徒から見ても、既得権行使という不公平感を禁じ得ません。信徒数名であっても第一種教会だから正議員を出せるという既得権とはいったい何なのでしょうか。
教会種別の実体乖離と既得権行使という不公平をそのままにしている日本基督教団が、信徒減少を紛争のせいにしたり、社会派福音派と色づけして社会派に責任を押し付けたり、正統主義福音派は伝道に励む教会だと叫びつつ、「教憲教規」遵守を絶対的要件として掲げてくるやりかたは、権力を行使する姿に映ります。このような教団の姿は、とても神に対しても教会に対しても真実であるとは思えません。
ドイツ(ヨーロッパ・ドイツ社会の公的領域から排除され絶滅収容所へと送られるという危機)から亡命したユダヤ系アメリカ人ハンナ・アレント(政治思想家)は、自著『人間の条件』のなかで、《労働》がもっとも優位におかれ“ものごとの決定”という公的領域としての《活動》を喪失させられることは、人間の条件から外れることだ、と論じています。同じように、伝道所の信徒が正議員として教区総会の意志決定に参加できないということは、教区総会において伝道所の人格が十分には認められていないことであり、人間の条件から外れることになるのだとは考えられないでしょうか。ぜひ、このようなことを信仰の目で神学してほしいと思います。日本基督教団は宗教団体であり信仰共同体なのですから、運用上のさまざまな規則や規程にも福音的な理念や神学が働かなければならないはずだと思いますから。
日本基督教団が創立されてから70数年の今日、日本基督教団の機構そのものや「教憲教規」の抜本的見直しを日本基督教団全体で、またそれぞれの教区で検討していかなければならないのではないでしょうか。そのようなカイロスがもうすでに来ているように思います。
いずれにしても、沖縄教区は、沖縄キリスト教団時代からの歴史的な経緯からいっても、伝道所の信徒が教区総会の正議員になれるよう誠実に推進作業を実行していかなければならないと思います。
(『キリスト教書総目録2014年版』には、橋爪大三郎氏がトマス・アクィナス『神学大全』にふれて、「キリスト教では、法を、永遠の法 / 自然の法 / 人間の法、に三分するというのである。永遠の法とは、Godがこの世界を創造したときの法。神の言葉で書かれており、人間は眼にすることができない。しかし、世界の設計図であるから、この世界とともに実現している。自然法とは、永遠の法のうち、人間の理性で発見できる部分。永遠の法の、真部分集合である。立法者は神であるので、変わることのない永遠の法であり、人間はそれを発見できるにすぎない。人間の法とは、いわゆる制定法。国王など誰かが恣意的に、制定した法である。完全ではなく、ときに誤っている。何年何月に誰が制定したという、制定の手続きが伴う。ゆえに、廃止することもできる。実定法ともいう。そして、三つの間には、序列がある。永遠の法>自然法>人間の法。下位の法は、上位の法に従い、それに反することはできない」と実に興味深く紹介しています。存在の類比のトマス・アクィナスでさえこのように論じているといいます。信仰の類比をかかげたカール・バルトのように神の絶対性を説く神学の言葉に耳を傾ければ、なおさら、制定法が変わり得るものであり場合によっては廃止され得るものであることが理解されるはずではないでしょうか。
近代化のなかで大日本帝国憲法や日本国憲法のもとに位置づけられた差別法「北海道旧土人保護法」や「癩予防法、らい予防法」の廃止が要請されても、法律内容の理不尽さや差別性に対して真摯に向き合わずに多年にわたって放置されたことを、私たちはどのように見るのでしょうか。いずれの差別法も廃止されるまでに、実に、80年90年という愚かな年数がかかっています。日本基督教団も同じような道をたどるのでしょうか。
【戒規と教会と教区について】
裁判員制度の時代、いずれの市民も「裁判員とは何か」を理解していることが求められます。教会の役員会が戒規を扱わなければならない場合、役員は裁判員と同じ立場になります。裁判は人格権への理解はもちろんのこと、ことがらに対して客観的に中立公平公正であることが原則となります。たとえ教師が戒規の議案を上程したとしても、役員は中立公平公正でなければなりません。戒規の対象とされている人格に弁明の機会を与えることはもちろん、弁護者や第三者が同席し、彼らの発言の機会も認められる等、当然配慮がなされるべきであります。ですから、一方的に提案者の言い分だけで決議することはあってはならないと考えるべきです。日本基督教団の教会であれば、それぞれの教会の「教会教規」「教会規則」ならびに「日本基督教団教憲教規および諸規則」に基づいて中立公平公正の立場から判断されなければなりません。
信徒に対する戒規を施行できるのはそれぞれの各個教会でありますが、教区は、不服申し立てがなされた場合、これを受理し、教区常置委員会はこれを審判しなければなりません。なぜなら、『日本基督教団教憲教規および諸規則』の「戒規施行細則」第11条には「不服なるときは、教区常置委員会の議を経て、之を審判するものとする」と明記されているからです。不服申し立ては、日本基督教団に属する教会のすべての信徒に保障されている権利です。そのため、教区は、常置委員会の議を経て調査委員会を立ち上げるなどし、不服申し立て当事者と当該教会役員会に問安調査などへの協力をお願いして、決議に至った経緯や真偽の確認などを調査することになります。不服申し立てがなされた時点から審判がなされるまで、不服申し立て人である当事者に対する当該教会役員会の戒規決議は保留となります。
日本基督教団に属する教会のすべての信徒に保障されている権利を、日本基督教団に属する教会や教師や信徒の誰も、否定することはできません。
【沖縄教区事務の沖縄キリスト教センターへの委託について】
沖縄教区は、教区事務担当者の退職(2013. 8)を契機に、教区事務全般を沖縄キリスト教センターに委託し、沖縄キリスト教センターのスタッフに担ってもらうことにしました。教区は、委託費を沖縄キリスト教センターに支払い、人件費等に用立ててもらいます。このことが、沖縄教区と沖縄キリスト教センターの実質的関係(一体型)の構築に益となるよう期待します。
沖縄教区と沖縄キリスト教センターは、2013年度予算で沖縄キリスト教センター建物の外壁を修理塗装することを実施しました。建物の維持強化のための工事として理解していただきたいと思います。
【沖縄キリスト教センターの法人化について】
沖縄キリスト教センターの法人化については、みなし法人化を具体化できないだろかと思案しています。その際、沖縄教区の経理と沖縄キリスト教センターの経理を、みなし法人会計の中で一元化し、教区の経理と沖縄キリスト教センターの経理を、それぞれに公益部門と収益部門を適切に区分しながら一体型の会計にし、沖縄教区そのものをも、みなし法人化していくことも含めて考えていきたいと思います。沖縄教区全体で積極的にこのことについての検討を共有して欲しいと思います。
【東日本大震災と沖縄教区】
東日本大震災から3年が経ちましたが、被災地は、いまだ傷の癒えない状態にあります。被災地の方々のために祈りをささげつつ、以下の通り報告します。
被災地からの親子保養プログラムの受け入れ(2014. 3. 26~4. 1)、被災地訪問(「第2回東北の被災地と対話する旅」2014. 9. 24~27)の実施、自然農法に取り組んでこられた避難者農家の方から大震災と原発事故による放射能汚染によって一体何が起きたのかを学び理解を深めるための講演会の開催(於:沖縄キリスト教学院2014. 10. 11、於:名護伝道所10. 12)、被災地への献金がささげられるその都度被災地へお送りするという通常作業など、沖縄としてできることを地道に取り組んでいきたいと思います。沖縄キリスト教学院の大学生たちによる被災地ボランティアや保養プログラムの受け入れ(2013. 8. 7~11)など関係団体の取り組みにも関心を寄せたいと思います。また、沖縄に滞在の避難者への取り組みなども視野に入れられないだろうかと思っています。相愛幼稚園に避難者の児童が入園したりしていますが、何らかのニードがあれば委員会で検討してもらいたいと思います。
沖縄教区として取り組めるアイデアがあれば積極的に実行したいと考えていますし、被災地支援の取り組みは、沖縄教区全体で共有したいと願っています。
【沖縄教区の財政と互助制度について】
負担金未納教会の未納金額が増大していくことは慙愧(ざんき)に耐えません。互助制度で支えられている教会や伝道所への不誠実と映ります。沖縄教区の教区予算の半分以上は互助制度にかかる予算ですから、小さな教区として、立場の相違という理由だけでは済まされないことだと思います。
教団に距離を置いているにもかかわらず沖縄教区に献金を送ってくださる多くの教会は、教団の現執行部体制を支持する側の教会ではなく、教団の現状に憂いを抱いている側の教会です。このことについては、互助献金委員会の報告を参照すればわかります。連帯の想いと祈りとともに送られてくる献金によっても教区と互助制度が支えられていることを認識したいと思います。このことは、沖縄教区が教団に距離を置き続けていることへのペナルティとして沖縄宣教連帯金を減額してくる日本基督教団によって支えられているのではないことを物語ってもいます。
現在、互助制度はいつまで維持できるか財務委員会が調査し検討していますが、諸教会諸伝道所の皆さんにも、自らのことがらとして、考えてもらいたいと思います。副業をしながら家計を支えている教師家族の実態把握を教区としては行っていませんが、互助制度が成り立たなくなった場合を検討しなければならない現状に達していることは否めません。
日本基督教団の教会はプロテスタントの教会でありますから、福音信仰と宗教改革的原理から示される「聖徒の交わり」として、教団や教区や教会を理解したいと思いますし、主にある互恵互助の群れであるべきだと考えを深めていきたいと思います。
【研修センターなきじんについて】
現在、研修センターなきじん管理運営委員会は、新しい施設建物の建築を検討しています。いろいろな施設を見学し、長期保養プログラムに対応できる施設やキャンプ施設を総合して検討しながら、自然をいかした研修センターなきじんの理念に合った建物を考慮中です。建築後の専従管理者など運営体制をどのようにしていくかも検討しつつ、進めていく必要があるように思います。
研修センターなきじんにふさわしい施設建物の早い完成を願いながら、取り組みに祈りと協力をお願いしたいと思います。(続く:海外の教会との交流とフィリピン台風被害救援支援)