【教団と伝道】
『教団新報』により、伝道推進室が設置されたのだから、伝道推進室に予算が振り向けられるようにと規則改定を行う方向に教団が動いていることを知りました。なぜ、地方の伝道が中央経由で応援支援の美名によって伝道者や講師が派遣されなければ、伝道が推進前進しないということになるのでしょうか。
地方には地方固有の、各個教会には各個教会固有の、それぞれに置かれた状況の違いがあり、それぞれの伝道に対する考えがあるはずであります。中央から予算と講師を派遣するようなやり方を喜び、そのような体制に依存する地方教会が増えていくとしたら、もはや、地方教会においては聖書が教える預言者的使命を自ら放棄していくことになるのではないでしょうか。伝道者や牧師を養成する神学校の教育内容にも疑問を感じざるを得ません。
福島や沖縄で、中央からの斡旋で出向いてくる教師や伝道者に何を期待できるというのでしょうか。教団の「信仰告白」を宣教し、「教憲教規」に従う教会を優遇するようにして中央指導、中央誘導を全国に展開しようというのでしょうか。私たちは、そこで生活している人々の声に聴きながら隣人となることを、イエスの福音から学ばないのでしょうか。
誰でも使命や召命を感じた時、一人で立つように促されたはずではなかったでしょうか。自分が遣わされている場と自分の立ち位置の揺らぎと危うさにもかかわらず、それゆえに、その人にしか示されない使命や召命が与えられていくはずではなかったでしょうか。聖書が語るように「聖霊は、風が思いのままに吹くように吹く」と教えているように、伝道は多様に豊かに広げられていくはずのものではないでしょうか。新しい風は、日本基督教団の外で吹いていくことになるのではないかと考えてしまいます。
『いのちのことば』(2013年10月号)に、信州夏期宣教講座編『東日本大震災から問われる日本の教会』(いのちのことば社)を取り上げて保守バプテスト同盟北上聖書バプテスト教会佐々木真輝牧師が、「東日本大震災は、日本の教会の何をあらわにしたのか」と題して書評を述べていました。戦後の教会の課題であるにもかかわらず社会的なことがらに私たちはほとんど素通りしてきた、そのことを「おかしい」と指摘する執筆者の一人渡辺信夫氏に同感しつつ、執筆者の一人の朝岡勝氏の論考にふれ、「氏の指摘する『伝える教会』から『仕える教会』への転換は、決して被災地支援という実際的な必要から生まれたものではなく、聖書自体の示している教会の本質が必然的に求めていることであると思わされた」と書いています。日本基督教団の現状と対比してあまりの真逆が述べられていることに深く考えさせられてしまいます。日本基督教団以外の他教派の、それも福音派といわれる人たちの方が、今やすぐれて社会意識や歴史意識を持ち、教会のあるべき姿やあり方に向き合っていこうとしているようすが強く感じられ、地方の小教区にいるものとして、強く励まされる思いを与えられます。
また、東日本大震災の3・11以後、さまざまな団体に寄せられた被災地救援支援に対する献金や寄付のいくつかの報告をみますと、日本における最大のプロテスタント・キリスト教と言われる日本基督教団よりも他教派教会や他キリスト教団体に目を見張るようなものがあることに感心させられます。この事実は、一体何を物語っているのでしょうか。教団に属する一人一人がよく考えなければならないと思います。
それにしても、日本基督教団のミニストリー理解は、非常に狭いと思いませんか。教職の位置づけを、教会、認可神学校、関係学校、関係施設、関係団体等の教師の他はいっさい無任所で一括してしまうような現在の教団規則は、教会のミニストリー理解を非常に狭くし広がりのないものにしてしまってはいないでしょうか。無任所で一括してミニストリーの多様性を位置づけられない日本基督教団に、伝道と宣教の広がりや豊かさの何が期待されるというのでしょうか。
「生活の座からの宣教理解」
タイで教えニュージーランドで教えニューヨークのユニオン神学校で教えた小山晃佑は、欧米の神学ではタイの人々と出会えないと思案し、そこに生きる人々の生活から『水牛神学』を展開せざるを得なかったようです。聖書を学び神学する際、それぞれの書の歴史的文脈、時代的文脈、社会的文脈、文学的文脈、文法的言語的文脈などが問題になるのと同じように、信仰者が伝道し牧会する場の具体的な文脈が問題になると思います。どこに立ち、誰を隣人とするか、誰と共に生きるか、信仰者の生活の座と神学の視座に各々の文脈と共に問題や課題が入ってこないでしょうか。私たちは、あまりにも欧米風に聖書を読んでこなかったでしょうか。そろそろ聖書をアジアの目で読んでもよいのではないかと強く思います。沖縄にあれば沖縄という目で。それとも、欧米風に読まないと正統ではないとでも言われるのでしょうか。
「アニミズムへの警戒」
戦前回帰的に憲法改正の動きや戦争のできる国になろうとする勢力が支持を大きくしている昨今、国家主義回帰や軍国主義回帰現象が隠れた天皇制アニミズムと共にやってくるのではないかと危惧します。日本の教会は、立ち位置を明確にしながらしっかりとした信仰に立って反対の意思を表明していかなければならないでしょう。ヤマトアニミズムの土壌の上にシャーマンとしての天皇が頂点をなすような宗教掛かった天皇制国家主義に後戻りする傾向が出てきても、批判精神を形成できない日本社会にあってアニミズムとヤハウエ宗教の違いさえ見きわめられないとしたら、日本のキリスト教会の預言者的働きはとうてい期待できないと思わざるを得ません。
(2013年7月1, 2日に行われた日本基督教団第38総会期第2回常議員会議事録には、伝道推進室報告の「7. 教会伝道応援」の「③ 沖縄教区諸教会への伝道応援」という項目についての質疑のなかで、「沖縄教区は、教団と距離を置く姿勢を10年継続しているが、沖縄教区執行部と距離を置いている諸教会がある。『信仰告白』と『教憲教規』を重んじ、全国の諸教会と共に歩もうとしている教会である。そのような諸教会からの要望に応え、沖縄における伝道応援を別途準備し実施する」とあります。このような文章に懸念の意見が出され取り消し要請がなされたが、否決されたと聞きます。
沖縄教区の諸教会諸伝道所は、いずれも日本基督教団の「信仰告白」を告白し「教憲教規」を規則として教会活動や教会運営をしているにもかかわらず、上記のようなこのような発言が確信犯的にでてくること自体おかしいと進言する人は、彼らの間にはいないのでしょうか。
沖縄教区が日本基督教団に距離を置くことを決議し、また、「『沖縄における将来教会の在り方』答申」(2002年)を出すなど独自の発想を持つ教区であるにしても、依然、教区内の諸教会諸伝道所が、日本基督教団の「信仰告白」や「教憲教規」を用いていることにかわりはありません。
69年の合同以前も合同以後も、また、それ以来、本土の教会よりも沖縄教区の教会や伝道所の方が、日本基督教団の規準に合わせる傾向が強く働いたように思います。私が責任を負っている教会では日本基督教団「信仰告白」全文を週報に掲載し第1主日礼拝で全文を告白しています。かえって、本土の諸教会諸伝道所の方が、礼拝では、日本基督教団「信仰告白」よりは「使徒信条」で済ませている実態を多く見るのではないでしょうか。こんな基本的なことがらをチェックせずに、まことしやかに「信仰告白」「教憲教規」を重んじていないと攻撃の材料にしていること自体、日本基督教団の現執行部やそれを支持する人たちが、いかに事実確認なしの表面的思惑で発言や行動をしているかを物語っているといえるように思います。現教団執行部体制の日本基督教団の不誠実さを表しているといわざるを得ません。日本基督教団は、イエス・キリストの福音を伝道しようとしているのか、それとも教団を伝道しようとしているのか、まったくわからないようなやり取りが報告されてきます。残念。)
【政治と社会】
特定秘密保護法が成立してしまいました。沖縄県知事が辺野古移設を承認してしまいました。これが何を意味しているのか、どの程度の人がどの程度危機的に考えているのでしょうか。ナチズムドイツの全体主義から亡命せざるを得なかったハンナ・アーレントは自著で「人間の共同体に現れる必要とされるすべての活動力のうち、ただ2つのものだけが政治的であるように思われ、アリストテレスが政治的生活と名づけたものを構成するように思われた。すなわち活動と言論がそれである」(ハンナ・アーレント著『人間の条件』ちくま学芸文庫p. 46)と論じています。『ファシズムと言論弾圧』などの本を読んでも公的領域での活動と言論が保障されているはずの民主主義が崩壊していくのではないかという危機を感じざるを得ません。
戦前、治安維持法が成立した時、いったい、どれだけの人が危機感を感じたのでしょうか。教科書裁判で知られる歴史学者家永三郎が、自著『激動七十年の歴史を生きて』(新地書房、1987年)のなかで、「戦争というものは、決して突然ある日出現するものではなく、徐々に戦争への道が準備され、その一歩一歩を阻止していかなければ戦争を阻止しえないということを我々は十五年戦争によってよく学びとっています。十五年戦争のなかで多くの国民は戦争に誠心誠意協力しました。これは事実であって、権力によって無理矢理国民の多数が追いやられた、というだけでは決して正確ではないと思います。・・・ほとんど国民の大多数が義務教育を終わるだけで社会に出ていた実情を考えると、義務教育段階で国定教科書によって教育されてきたことこそ、国民をして戦争に対する批判的精神を持ち得ざらしめた最も決定的な条件の一つであった、と思うのです。いよいよ戦争体制が現実化した時になって戦争を阻止しようとしても遅いのです。その準備的段階において、一つひとつそういう道への曲り角で選択を誤らないように努力する必要があるのです」(p. 322)と書いています。
また、ナチズムの吹荒れたドイツで、キリスト者も含めて多くの人々が、ユダヤ人虐殺に加担してしまいましたが、ナチス将校アイヒマン裁判のレポートで、ハンナ・アーレント(政治思想家)が、「上からの命令に忠実に従うアイヒマンのような小役人が思考を放棄し、官僚組織の歯車になってしまうことで、ホロコーストのような巨悪に加担してしまうということ。悪は狂信者や変質者によって生まれるのではなく、ごく普通に生きていると思い込んでいる凡庸な一般人によって引き起こされてしまうこと。このような事態を指して『悪の凡庸』という概念を導入した」と『桜坂劇場3月号Vol. 105』2014映画「ハンナ・アーレント」の解説で紹介されていました。「このレポートによってハンナ・アーレントは世界中から激しいパッシングをあびることになった」とありました。けれども、ごくごく普通の人たちが国家や上の命令だからと、たとえ非人間的なことであっても忠実に遂行していったことは、歴史の否めない事実です。このことは、時代をこえて誰にでも当てはまることとして、今日の私たちにも例外ではないと思います。
私たちは、政治を丸投げせず、自分たちのことがらとして、戦争ではなく平和と友好のために、反対すべきは反対しなければならないと思います。日本の教会は自由教会(国家制度に組み込まれた国教会ではない)なのですから、国家に対しては常に客観的に批判的であっていいと思います。
沖縄教区は、第71回教区総会決議を受けて、「憲法の『改悪』に反対する声明」「『主権回復の日』抗議声明」「橋本徹大阪市長の発言に対する抗議声明」を発信し、教区常置委員会は「特定秘密保護法に対する抗議声明」を発信しました。このような抗議声明は、教会や教団が取り組むことがらではないと考える人たちもいると思いますが、教会やキリスト者が国家や社会の只中にある以上、まったく無関係にはできないことがらとして、真摯に向き合い誠実に自分たちの意思を発信していくことへの理解をしていただきたいと思います。
【結びに】
沖縄教区の諸教会諸伝道所が真剣に考えていることは、沖縄にあって“信仰とは何か”、沖縄にあって“教会とは何か”、であります。当然、そのために常に、“信仰の原点に戻ること”、“沖縄の教会の原点に戻ること”、宗教改革の原点である「神の義」「キリストのみ」「聖書のみ」「信仰のみ」「恩寵のみ」「万人祭司」を確認しつつ“イエス・キリストの福音の原点に戻ること”を学びつつ、具体的な生活の座で、信仰者としての今と将来を歩みたい、考えたい、ということです。
聖書に帰ることで与えられた宗教改革の動機、私たちが救われるのは信仰によってであること、信仰は教団からではなくイエス・キリストの福音からであり、聖書のみことばによってであり、神の恩寵によってであることをいつでもどのようなときにも確認したいと思います。
私たちキリスト者は常に、神の前にも隣人の前にも謙虚でありながら、神の導きを祈りつつ、イエス・キリストの福音に根差して、教会本来のあり方とは何か、キリスト者の信仰とは何か、隣人愛とは何か、どうあるべきか、と真摯に思考しながら(決して思考停止に陥らないようにこころしながら)、今をしっかりと歩まなければならないと思います。
『宗教クライシス』(岩波書店、1995年)には、「宗教について、宗教に携わっているものも、その外にいるものも、あまりに知らなさすぎる。それが最大の問題である」とあり、「宗教の内部にいるものは、その宗教の教義について、布教の方法は知っているが、宗教がいかなる可能性と問題点を持っているかを認識している人は少ない」と、また、「しかし、教義の素晴らしさを理解し、それを展開できる能力があるならば、宗教自体の持つ問題点に対する洞察力もあってしかるべきはずである。しかし、多くの場合、宗教の問題点を指摘するものは、組織にとって害を及ぼすものとして排除され、教団内は、教団の賛美で埋め尽くされる。その会話の一面性が、『井の中の蛙』状態を生み出してしまう」(p. 208)と論じられています。さらに、「宗教団体に属していない人々も、宗教について多くを知ってはいない。宗教のどこに人をひきつけ魅惑する力があり、どのような可能性を開くかについても、どのような危険性があるのかも的確には知らない。これだけ宗教に対する知識は集積されているのに、それが広がりを見せていないのは不幸である。その一つの原因は、宗教団体に属している宗教者の知識が、主に自教団の正当性の主張と布教という限られた目的に閉じこめられ、『教学』化していることである」(p. 208)と論じられています。実に、既成の宗教、宗教団体、宗教者自体が自己目的化していないかを考えさせるような文言に思えます。日本基督教団に属する教会やキリスト者にも当てはまることがらではないでしょうか。「『宗教性』が今ほど求められている時代はない」(p. 209)ともありました。
(文・竹花和成=日本基督教団沖縄教区総会議長、首里教会牧師)