律法によっては、神の国に入っていけなかったのです。必要なのは「信仰」です。信仰によって相続人になり、信仰によって御霊を受けるのです。
「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」(ヘブル10:38~39)
神の幕屋の奥には、誰も入っていけませんでした。しかし、信仰が与えられた私たちは、その中に入っていけるのです。「義人は信仰によって生きる」のです。その恵みを今、私たちは受けているのです。
「翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。『今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。』弟子たちはこれを聞いていた」(マルコ11:12~14)
イエス様は空腹を覚えられたので、いちじくの木に何かないかと見に行かれたのですが、何もなっていませんでした。そこで「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように」と言われたのです。
イエス様は言われました。「だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」(23)。イエス様がいちじくをのろわれたとき、その通りになりました。これはイエス様だからではないのです。イエス様は「あなたがたに言うのです」と言われました。「あなたがた」とは、私たちも含まれます。ここは、神様だからできて、私たちにはできないという話ではありません。私たちは救われたとき、イエス様の言った通りになるという「信仰」を与えられたのです。
「イエスは答えて言われた。『神を信じなさい』」(22)。この箇所について、King James版の聖書では、「神を信じなさい」ではなく「Have faith in God」(神様の信仰を持ちなさい)となっています。「神の信仰を持っているのだから使いなさい」ということです。別の訳では「Have the God kind of Faith」(神様と同じ種類の信仰を使え)となっています。私たちが信じたときに与えられた「信仰」は、まさにこの神様の信仰なのです。
ですから、他の宗教で使われる一般的な「信仰」と、私たちキリスト者が神様から与えられた「信仰」とは、全く次元が違うのです。
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神内源一(じんない・げんいち) / 徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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