「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)
イエス様が「私をアガペーの愛で愛するか」と言われたとき、ペテロは「フィリオーの愛で愛します」としか答えられませんでした(ヨハネ21:15)。しかし、アガペーの愛を知ってからは、アガペーの愛で愛するようになりました。
モーセの十戒をまとめた、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22:37)。これは、人間の愛ではなく、神の愛、アガペーの愛で愛しなさいということです。「隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:39)も同じです。
ですから、愛することは喜びなのです。苦しみを分かち合う、ということはあっても、助ける人は、それを苦しんでするのではないのです。どんなに努力したとか、どんなに人間的に重荷を分かち合ったとかいうものではありません。神様が私のうちに生きておられるから、できるのです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)
「神を愛する人々」とあります。神を愛するとは、神の愛によってであり、人間の愛によってではありません。イエス様は、その十字架の犠牲を喜びとされました。それは、神の愛、つまり見返りを求めない愛だからです。
「するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮に入り、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった」(Ⅱサムエル12:20)
礼拝の段取りがありました。日曜日にただ教会に来て、歌を歌って、メッセージを聞いて帰るのではありません。神様の前に出て、自分の中に赦せない人がいます、罪があります、赦してくださいと祈る。このような整えをしてから、神様を祝福する礼拝をささげていきます。
「ひれ伏す」というポイントにも注目します。
「それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して主を礼拝し」(Ⅱ歴代誌20:18)
「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し」(ヨブ記1:20)
「そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して」(創世記24:26)
「アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した」(創世記24:52)
「民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した」(出エジプト4:31)
このような、神様に喜ばれる「霊とまことの礼拝」を目指していきたいのです。(終)
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神内源一(じんない・げんいち) / 徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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