旧約時代、礼拝は準備の要ることでした。
「初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入ったつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません」(ヘブル9:1~5)
旧約での礼拝は、上記のような物が揃えてありましたが、幕の奥、至聖所の中に入っていくことはできませんでした。
「さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつも入って礼拝を行うのですが、第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです」(ヘブル9:6~8)
イエス様が来られるまで、「霊とまことの礼拝」はなされていませんでした。なぜなら聖霊が示しているように、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は明らかにされていなかったからです。ところがイエス様が来られたことによって、この幕が上から下に真っ二つに裂けます(マタイ27:51)。そして「今がその時です」(ヨハネ4:23)というまさに「その時」がやって来たのです。イエス様は「私が来て、十字架に架かり、アダムの罪のため、そしてあなたの罪のために血を流し、幕が開かれた。私を信じて、私を着ることによって、神との礼拝ができる者となる」と言っておられるのです。
「この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです」(ヘブル9:9~10)
私たちは罪が赦されていますが、旧約の礼拝ではその年ごとにその罪が思い出されて苦しくなるのです(へブル10:3)。旧約の礼拝は、「良心を完全にすることはできません」でした。
私たちの受けている聖霊は完全です。「聖く、傷なく、非難されるところのない者」(コロサイ1:22)、イエス様はそういう方です。それは、信じる私たちに対して書かれているのです。聖霊を受けることによって、私たちは完全な者となって神の前に行けるのです。
イエス様を信じる私たちは自覚しましょう。日ごとの生活の中で、愛を忘れた、自分にはこれが足りないあれがないということがあるかもしれません。しかし、私たちはイエス様を着ているがゆえに、完全な者なのです。日ごとの自分ではなく、見えないところにいる新しい人を信じるのです。それによって私たちは、神の国に入っていくのです。
「『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」(ヘブル10:37~39)
なぜ恐れ退くのですか。それは古い自分、能力のない自分、罪を犯す自分を見ているからです。自分は完全ではない、自分は正しくない。しかし、「見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17)との事実を信じることによって、いのちを保つのです。
信じて神の国に入ります。信じて恵みの中に入っていくのです。あなたへの素晴らしい神様のご計画がそこにあるからです。
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神内源一(じんない・げんいち) / 徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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