「ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は『子孫たちに』と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、『あなたの子孫に』と言っておられます。その方はキリストです」(ガラテヤ3:16)
イエス様が来るまでは、律法が支配していました。そして、イエス様が来たときに何が現れたのでしょう。
「しかし、信仰が現れた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです」(ガラテヤ3:25、26)
「信仰が現れた以上」とあります。神様から信仰をいただいた以上、私たちは律法の中にいないのです。律法の中にいると罪に定められますが、しかし、今は罪に定められません。中には「でも私、律法を犯すのです」という人がいます。しかし、私たちはその律法に縛られないのです。
イエス様の十字架とは何でしょうか。ガラテヤ3:13に書いてあるように、イエス様はあるのろいを受けられたのです。これはイエス様が罪を犯したからではなく、私たちの罪、アダムの罪のためのものです。これに対する代価をイエス様が払われたということは、私たちの罪の代価は、すでに支払い済みだということです。
「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです」(ガラテヤ3:13)
イエス様は、「律法ののろい」から私たちを贖い出されました。ですから、私たちは律法を犯すのですが、犯したときに来る「のろい」から解かれているのです。そして、唯一のアブラハムの祝福、イサクの祝福、ヤコブの祝福、限られた人にしかない、ヤコブの兄弟のエサウももらえなかったその祝福を、信仰をいただいた私たちは受けるようになったのです。
「このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」(ガラテヤ3:14)
どうしてエサウが受けられなかった祝福を、私たちが受けられるのでしょうか。それは、イエス様を信じた私たちは、イエス様の中に入れられたからです。つまり、イエス様がアブラハムの祝福を受けた約束の子孫なら、私たちは、イエス様の中に入れられている以上、その祝福を受けているのです。
「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(ガラテヤ3:28、29)
クリスチャンは、キリストの中にあって一つなのです。ギリシヤ人も日本人も韓国人もありません。イエス様がアブラハムの子孫と数えられるなら、私たちはイエス様の中にあるのですから、みな「約束の相続人」となります。
ガラテヤ3:14のこの言葉に注目します。アブラハムの祝福が私たちに及ぶようになった、その一番の目的はこれです。
「その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです」
神様の一番の目的は、私たちが「約束の御霊を受ける」ことです。その時に必要なものは「信仰」です。今私たちは「信仰」によって、「約束の御霊を受ける」ことのできる者になっているのです。
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神内源一(じんない・げんいち) / 徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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