17日から、映画『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』が、Bunkamura ル・シネマほか全国で順次公開されている。英ロンドンの中心地に位置する国立美術館「ナショナル・ギャラリー」が所蔵するのは、2300点ほどの美術作品で、決して多いとはいえない。しかし、年間500万人以上が訪れ、「世界最高峰」の美術館と呼び名が高い。その秘密に迫るべく、美術館の表側から裏側にまで、12週間にわたってカメラが密着した。監督は、第71回ベネチア国際映画祭で栄誉金獅子賞に輝いた、巨匠フレデリック・ワイズマンだ。
美術映画、ドキュメンタリー映画は数多くあるが、その中でもこの映画は奇妙だといえる。本来ならば映画を特徴づけるはずのBGMやナレーションが一切ない。美術館の中と外に溢れるリアルな音と、登場する人々の語りが、それらに代わっている。だが、音も語りも、映画を観ている観客に向けられているものではなく、あくまでも日常の一コマであるから、いやおうなしに観客を美術館の「現場」に引きずり込むのだ。
なんといっても一番奇妙なのは、美術作品(主に絵画)を取り扱う美術館、それを主題にした映画でありながら、「言葉」というものが、浮き彫りになってくるような錯覚を覚える点。絵画を見せられているはずなのに、いつしか自分が、登場人物の語りとその洗練された言葉に魅了されていることに気が付くのだ。
それはもちろん、登場人物――館長、学芸員、スタッフ、修復師――全員のレベル、意識の高さに由来するのだろうが、それと同時に、彼らが美術作品そのものの持つ隠れたメッセージを代弁する者であるからだと思う。
つい先日まで、三菱一号館美術館(東京都千代田区)で「ボストン美術館 ミレー展」が開催されていたが、3大ミレーのひとつ「刈入れ人たちの休息(ルツとボアズ)」の前に立った人たちは、口々にこう言っていた。「ルツとボアズって旧約聖書に登場するんだって」「ストーリーが分からないからよく分からないね」
「絵は見て感じるもの」、よくそう聞くが、実はそうでもないことを人々は知っている。画家たちは絵画にメッセージを込め、描かれているものには多くの場合、作者の意図があることを分かっている。知らなければ理解できないのだから、ただ絵画を見ても、頭の中に何の言葉も浮かんでこなければ、美術鑑賞の本当の楽しさを味わえているとはいえない。
この映画はキリスト教と決して直接的な関係はないが、だからこそ逆に、そこに登場するキリスト教宗教画の多さにあらためて驚かされる。特に、1250年~1700年までの名画はめじろ押し。教会の祭壇画にはじまり、ダ・ビンチの「岩窟の聖母」、ミケランジェロの「キリストの埋葬」、ティントレットの「弟子たちの足を洗うキリスト」、カラバッジョの「エマオの晩餐」、ルーベンスの「サムソンとデリラ」、ベラスケスの「台所の情景、マルタとマリアの家のキリスト」。画家の名前だけでもそうそうたるものだが、その題材も幅広い。同じモーセを取り扱った作品であっても、「モーセの発見」「黄金の子牛の礼拝」と、描き手によって切り取る場面が異なる点も非常に興味深い。
聖書に親しみのあるクリスチャン、聖書に記されていることが真実であると信じているクリスチャンにこそ、この映画を観てほしいと思うのはそのためだ。登場する学芸員たちの解説は、観客に絵画の見方を示してくれる。一つの場面を切り取った、動きのない静止画から、壮大な時の流れ、ストーリーを紡ぎ出してくれる。その語りの中心に流れる画家たちの信仰、聖書に基づくメッセージを、自分のものとして理解し楽しめるのは、聖書の言葉が既に頭の中にあるクリスチャンの特権だと思うのだ。絵画の視覚的イメージと、頭の中に浮かぶ言葉のひとつひとつがすんなりとつながる体験は、なんとも心地が良い。
この映画を見終わった後には、きっとちょっとだけ賢くなった気がするはず。それだけ、観る人の知的好奇心をくすぐってくる作品だ。そして不思議と、他の人に聖書の話をしたくなってくると思う。一枚の絵画を見せながら、「ここに描かれているのは、マルタとマリアっていう姉妹なんだけどね・・・」と話し始めれば、ベラスケスという偉大な先人の力を借りて、良い証ができるのではないだろうか。
映画『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』は、Bunkamura ル・シネマほか全国で順次公開されている。
■ 映画『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』予告編