今週土曜日に公開を控える、映画『天国は、ほんとうにある』。穿孔(せんこう)性虫垂炎にかかり、生死の境をさまよった3歳の男の子が一命をとりとめ、天国に行った話をしたという米国での実話がベースとなっている作品だ。今年4月に全米で公開され、興行成績約90億円を超える大ヒットを記録。日本でも、映画『神は死んだのか』と同時公開されることで話題となっている。
原作は『Heven is for Real』(邦題:天国は、ほんとうにある)。愛と奇跡のノンフィクション・ストーリーとして注目を集め、米ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに200週ランクイン。全世界で900万部の売り上げを記録している。
『神は死んだのか』が「神の存在」を問う作品だとするならば、本作品は「天国の存在」を問う作品だ。前者に、「学生 VS 教授」という白熱のバトルが描かれていることと比較すれば、後者には「子ども VS 親」という静かな葛藤が見て取れる。
3歳といえば、やっと赤ちゃんを卒業したばかりの幼い子どもだ。その子どもの口から、「天国に行った」という話を聞いたなら、あなたはそれをどう受け止めるだろうか。
トッド・バーポは、息子コルトンから天国に行った話を聞かされたとき、天国が本当にあると思っていない自分がいることに気づいてしまう。夜寝る前に読み聞かせている絵本のイメージを話しているのだとか、夢を見たのだとか、考え得る限りの説明を思い浮かべる。
もし、コルトンが他の親の子どもだったなら、それで済んだのかもしれないが、トッドは町の教会の牧師。死が近い人がいれば、枕元に呼ばれ、「御国が来ますように」と「主の祈り」を声に出して祈る。にもかかわらず、そんな自分が天国の存在を受け入れられないというのは大問題なのだ。
大学に行き、超心理学の教授に科学的な説明を求めるものの、コルトンの話は度を超えて現実味を帯びているため、納得のいく答えは得られない。トッドは自分自身の信仰を見つめ直す以外に方法がなくなる。
『神は死んだのか』がキリスト教徒、無神論者を巡って話が展開される一方で、本作品は教会が軸となってストーリーが進んでいく。コルトンの話が広まっていくにつれ、教会の役員たちが拒否反応を示し出すのだ。「天国・地獄の存在は、いつの時代も人々の心を支配してきた」「聖書を鵜呑みにするな」と。
「天国は本当にあるのか」という問いに対し、たいていの人はこう答えるだろう。「死んだら分かる」。その答えの中には、どうせ分からないのだから考えても無駄だという諦めと同時に、死と向き合い、死後の世界を考えることへの恐れがあるような気がしてならない。
しかし、コルトンの話す天国には、喜びだけがある。天使の歌声の響くところ、先に亡くなった人たちが待っているところ、痛み・悲しみ・労苦のないところ、光と輝きに満ちたところ、そして何より、コルトンがそこで会ったイエス・キリストは優しさに満ちた方だったという。コルトンの話す、神の愛の大きさに触れられるとき、トッドや教会の人々に天国が現われる――。
「天国は本当にある」。この一見単純に思えるメッセージには、キリスト教の福音の本質がある。イエス・キリストは、宣教の始めに「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と宣言した。天の御国とはどのようなものかを、たとえをもって人々に説き、天の御国への道を示した。
天国の存在への確信は、クリスチャンを強めることだろう。そして、多くの人々に希望を与えることだろう。
だが、忘れてはならないのは、原作に書かれたコルトンのこの言葉だ。「その人の心に、イエスがいないとだめ!もし、心にイエスがいなかったら、天国に行けないの!」
映画『天国は、ほんとうにある』は12月13日から、東京のヒューマントラストシネマ渋谷、大阪のシネ・リーブル梅田で上映される。その他の全国での劇場公開は、来年に控えている。