留学生を支える「トドの会」
渡部さんは、誰もが生活の現場でサマリヤの女のようにイエスに出会い、渇くことのない泉(生きる力)をいただいてほしいと思う。
そんな願いを込めて、1989年3月、パリで暮らす日本人留学生などを対象に集会を始めた。皆で夕食のカレーライスをいただくが、費用は渡部さんが負担している。
「最初に聖書の話を40分ほど。でも伝道や聖書学習が目的ではありません。問題を抱えつつも自分らしく生きたいと願っている人、自分を心から励まし慰めてくれるメッセージを求めている人・・・。そのような方はどなたでもおいでください。当初、極貧生活で椅子も買えず、集まってきた20名近くの若者たちは、床の上でゴロゴロしながらカレーライスを食べたり話に興じたりしていましてね」
その姿がトドみたいだったことから、渡部さんは集会を「トドの会」と名付けた。トドの会のテーマソングは讃美歌298番だ。
「安かれわが心よ 主イエスはともにいます 痛みも苦しみも 雄々しく忍び耐えよ 主イエスの共にませば 耐ええぬ悩みはなし」
「『激励カレー』パリで一七年間――留学生支える画家が個展」
読売新聞(2006年10月7日付朝刊)は、渡部さんの働きをこんな見出しで報道した。
主の呼びかけに従ったときに
自分をどこまでも支えてくれる方が必要なのは、外国に暮らす日本人だけではない。むしろこの日本の中にたくさんいる。それを感じた渡部さんは、個展のために帰国するたび、各地でトドの会を開く。パリで渡部宅のトドの会に出席し、その後帰国した人が自宅を開放し、カレーパーティで旧交を温め聖書に耳を傾ける。
2006年10月、東京トドの会で渡部さんは初めに次のようなメッセージを取り次いだ。
「ベテスダの池に真っ先に飛び込めば癒される――。ある病人はそう言われながらもそのタイミングを失い、38年間病臥(びょうが)し続けてきた。
この世は、ベテスダの池に真っ先に飛び込む力のある人だけが救われる仕組みになっている。そこからはじき出され、生きる望みを捨てさせられてきた病人は、もはや自分の本当の願いすら分からなくなっている。キリストはそんな病人を見つめ、本心を問い掛けた。
『なおりたいのか』
この短い一言は病人の心に深く浸み通っていき、さらに言外にこう語り掛ける声を聴く。(諦めるな、ごまかしてはいけない。あなたの本当の願いを素直に口に出しなさい)
キリストのまなざしには希望を与える力がある。病人はその力を受け取った。そして『起きて床を取り上げて歩きなさい』との呼び掛けに従ったときに癒された」
トドの会は2013年にベルギーでも始まった。国内では、北は米沢から南は福岡まで7カ所へと拡大している。
「嵐の中の平安」を描く
「渡部さんの絵はなんと静かで平安なのでしょうか。騒音が一瞬消えたときを表現しているようであり、どの絵にも柔らかい光が感じられるのです」
「画家はひたすら、雑多なものを画面から意識的に除去し、建物と川と橋と街路樹だけでその風景を浮き出させる。『光と空気』の陰影だけに焦点を絞って、長年にわたって取り組んできた作品群だと思う。作品のどれも、見る者に静寂と神秘を感じさせる」
私の友人たちは、このような感想を記した。
しかし渡部さんの日常は、その絵が表現している平安とはかけ離れており、悩みは尽きない。アパートの浴室の水漏れの修理代がなかったり、諸経費の支払期限を迎える年の瀬を目前にしながら絵が売れなかったり。「異国にいて、生活費が乏しくなることほど心細く恐ろしいことはない」と日記に記している。
ところが彼の絵はどうだ。見る者の心をこれほどの平安で満たすことができるとは!
キリストは明言した。
「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」(ヨハネ14:27)
この平安は、誰も渡部さんから奪い取ることはできない。生活の嵐の真っ只中で、彼の魂は決して脅かされてはいない。彼が絵を通して表わしているのは、いわば「嵐の中の平安」なのだ。そのようにしてキリストを作品自体で語る。それが、画家・渡部正廣の宣教の形なのだろう。
■ 風景表現の限界に挑む画家・渡部正廣さん:(1)(2)