米プロテスタント最大教派である南部バプテスト連盟の倫理学者ラッセル・ムーア氏と、米国のメガチャーチ、サドルバック教会の牧師であるリック・ウォレン氏が、18日にバチカンで開かれた会議で講演し、キリスト教徒は最近の「性の革命」の前に屈したり、セクシャリティや結婚について聖書が語る真理への信仰を揺るがせるべきではないと警告した。
ムーア氏は、「現在の欧米文化は、無頓着なセクシャリティ、同棲、理由のない離婚、家族の再定義、中絶する権利を、従来の家長制度を打ち破るであろう性の革命の一部として謳歌(おうか)しています」と、教皇フランシスコが主催する「男性と女性の相補性」会議の中で述べた。
「そのような性の革命は全くもって解放ではなく、単に家長制が形を変えてのしかかっているだけなのです」とムーア氏。「性の革命によって男性は、権力、名声、個人的な快楽の追求に重きを置いた価値観を根拠として、収奪的な最優位雄というダーウィンの仮説に付き従うようになりました。私たちの周りでは、自己表現としてのセクシュアリティの残骸が多く見られますし、これからもまだ見られるでしょう。そのような利害関係は、ただ社会的、文化的というよりも大いに霊的なものです」と指摘した。
南部バプテスト連盟(SBC)の倫理信教自由委員会委員長であるムーア氏は、全ての文化において、セクシュアリティが「単なる神経の末端の高揚を超えた何か」であり、「何か謎めいたものであり、自己の結合である」ということを認識していると主張した。
「キリスト教福音派の観点では、霊的な文脈で語るとき、軽い性的接触というのは全く存在しないからです」とムーア氏は言う。
一方、ウォレン氏は講演前、自身のツイッターで「今日私は、バチカンで教皇フランシスコが開催する会議で結婚の聖書的意味について講演するので、お祈りください」とコメント。この日の講演では、この3日間の会議の中で多数の講演者が語ったことについて賛同すると前置きした上で、教会の実践的な行動に焦点を当ててメッセージを語った。
「さまざまな方法で、いのち、性、結婚の定義について議論がなされているのは、つまるところリーダーシップについての質問なのです」とウォレン氏。クリスチャンポストに送られた彼の講演メモの中ではそれに続けて、「誰が導くのですか。教会は大衆に従うのですか、それとも教会が大衆を導くのですか」と尋ねている。
「もし教会が性の革命の前に屈服し、文化に対する証を立てることができなければ、この崩壊した文化の中で、地の塩、世の光とはなり得ません。伝道のためにセクシュアリティと結婚についての聖書的真理を諦めなければならないというのは、神話に過ぎないのです」と指摘した。
教皇フランシスコは17日の会議の中で、結婚は男性と女性の結合によって定義されると宣言し、キリスト教徒が同性婚やセクシュアリティに対する見方を変えることを考えるべきという一部の主張を退けた。
「みなさんが、男性と女性の相補性を探求するために、この国際会議に集まってくださったことは適切なことです」と教皇。「この相補性は自分自身と他の人の賜物に感謝することを学ぶ最初の場であり、ともに生きることのわざを身に付け始める場である結婚と家庭の根本なのです」と語った。
教皇は会議の場において、「結婚と家庭が危機にある」との声明も出した。
以下に、ムーア氏とウォレン氏の講演の抜粋を掲載する。
■ ラッセル・ムーア氏
もし私たちが性の革命に反する主張をするならば、現代人はそれを聞き入れないだろうと多くの人は考えています。私たちは、結婚の定義、人間のセクシュアリティの限界、創造された本来の形での男らしさ・女らしさについての自分の信念を隠し、または少なくともそのことについての会話をすることを避けるべきで、代わりにもっと一般的な霊的事項について話すべきだという主張は前からありましたし、本当に全ての世代の人からこうした意見を聞きます。
私たちの先輩は、現代人は古くからある使徒信条の奇跡的な主張を受け入れないだろうから、聖書の倫理的な項目である「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイ7:12、口語訳)という黄金律を強調し、処女懐胎や復活、再臨のような受け入れがたいことは強調すべきでないと強く言われてきました。この道に進んだ教会は、今やヘンリー8世(訳注:16世紀のイングランドの王)よりも死んでしまっています。
キリスト教を求めない人は、キリスト教ぽいものも求めないことは明らかです。さらに重要なのは、メッセージを改変してしまった教会は、長老教会の神学者であったジョン・グレッサム・メイチェンがキリスト教とは違う宗教であると鑑別したものを取り入れてしまっているということです。火あぶりの柱は今や高く上げられています。キリスト教の性倫理を放棄すること、最小化することは、イエスが私たちに下さったメッセージを捨て去るということです。
私たちにはそのようなことをする権威はありません。さらに、そのようにすることは私たちの隣人愛も捨て去るということです。私たちは、全人救済説(ユニバーサリズム)に的確に狙いを絞った半分の福音というものを世に提供することはできません。それは神の裁きを免除するというものであり、私たちが恐れるその罪は当世風過ぎて扱えないものです。
ラッセル・ムーア氏の講演の全文(英語)はこちら。
■ リック・ウォレン氏(メモ)
パウロはこのように説明しました。「夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。『それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい」(エペソ5:25〜33、口語訳)
これこそが結婚の最も深い奥義なのです。これこそが結婚の最も深遠な目的なのです。このことこそが、結婚が男性と女性の間でのみ行われるべき最も強い理由なのです。
親子関係も含めた他のどんな人間関係も、この親密な一致を映し出すことはできません。結婚の再定義は、神が結婚を通して描写しようと意図した像を破壊することになりうるのです。
この論議に対しては、私たちは決して屈服できないのです。