米カリフォルニアにあるサドルバック教会のゴスペルクワイヤの一員として、この秋来日したマリ・パクストンさん。親しみやすい性格、美しい笑顔、そして何より力強く主を賛美する歌声に魅了されるファンも多い。彼女と会話を交わした瞬間から、「この人は、人の痛みを知っている温かな人だ」と直感した。
インタビューを申し入れていたが、ワークショップの合間の休憩時間にも、多くのファンがサインや握手を求め、彼女の前から人がいなくなることはなかった。半ば諦めて席に戻ると、「私のこと、探していましたよね?すいません。必ず時間作りますから」とわざわざ声を掛けに立ち寄ってくれた。そしてまたスポットライトの当たるステージへ。
名古屋で生まれ育った彼女は、25年前にオーストラリアへ渡り、そこで米国人の夫と知り合い、渡米することになる。教会員数3万人と言われるメガチャーチ・サドルバック教会のクワイヤは、メンバーだけでも約100人が在籍する。ソリストになるためには、数々のオーディションを通過しなければならない。英語は彼女にとって第二言語。ゴスペル発祥の地でソリストとして活躍するまでには、どれだけの苦労があったのだろうか。神は彼女という器をどのように生かされているのだろうか。米国へ帰国後、メールでインタビューしたものをまとめた。
名古屋で過ごした幼少期 いじめられた中学時代
幼少期を名古屋市中区で過ごしたマリさん。母親は茶道や華道の講師をしており、母方の両親の家で過ごすことが多かったため、「かなり大人びた子どもだった」と話す。怖いもの知らずで、幼い時から歌が大好きだった。
中学入学の年に、新しい土地に引越した。同じ名古屋市内であったが、マリさんは当時から背が高く、髪の毛の色が元々真っ黒ではなかったため、転校した途端に目立つ存在に。それから壮絶ないじめが始まった。2年生になったころには、「ウソつき」と同級生に言われるようになり、自分に関わる全ての友人がいじめの対象になった。
朝、登校すると「バイキン女」と机に書いてあったり、物が隠されたり、「今考えると、よく学校に行っていたと思います」と当時を振り返る。周りにいるみんなが怖くて、マリさんとは話もしてくれなくなった。もちろん、お弁当も毎日一人で食べた。担任の先生も見て見ぬふり。「自殺も考えた」と話す。
3年生になると、受験の忙しさからいじめの手は緩んだように見えた。しかし、「いじめられっ子」のレッテルを貼られたまま同じ学区の高校に進学しても、また同じ目に遭うのではと考え、誰も自分のことを知らない遠い学校を希望した。両親には猛反対されたが、自宅から片道3時間もかかる学校を受験。3年間通うことになる。
バンド結成で開く音楽の道
高校入学後、マリさんは音楽バンドを結成。その実力から、どんどん名が知られるようになる。その噂は卒業した中学周辺にも及び、当時いじめていた本人たちが次々と謝罪に来た。「人って勝手だな」とその時のことを冷静に振り返る。しかし、彼女たちを受け入れ、その後は友人関係を続けた。
音楽活動は順調で、数年後には東海地方では彼女たちのバンドを知らない人はいないというほど有名になる。CMソングを歌ったり、当時は背が高いことを気にしていたが、それを生かしてモデルの仕事もするようになった。高校生だったが、周りの大人たちから教えてもらう刺激的な遊びにも興味を覚え始めた。
卒業後、大学に進学したが、活動の中心はやはり音楽。CM、ライブ活動、作詞作曲の合間を縫って、「派手に遊んでいた」という。卒業後もそこそこにスカウトされ、東京のプロダクションへ。レコード会社とも契約し、スタジオでのレコーディング活動が始まった。(続く)
■ マリ・パクストンさんインタビュー:(1)(2)