キリスト教史学会の第65回大会が19〜20日の2日間にわたり、同志社大学今出川キャンパス(京都市上京区)で開催された。ローマ皇帝ネロやスペイン出身のカトリック司祭ラスカサスなどのキリスト教史学に関するものや、キリシタン時代や沖縄のキリスト教信仰など日本のキリスト教史を扱ったもの、さらに戦時下におけるキリスト教平和主義の日中比較研究や、1920年代の中国キリスト教会の「本色化」運動の考察など、日本で学ぶ中国人や韓国人の研究者による発表も含め、計20に上る研究発表が行われた。また、明治学院大学の高井ヘラー由紀氏の研究「台湾キリスト教史研究における日本統治時代の評価」に学術奨励賞が授与された他、20日には「同志社と宣教師」をテーマにした講演も行なわれた。
今回の特徴としては、戦前・戦中のキリスト教に関する研究が多くみられたことが上げられる。セブンスデー・アドベンチスト教団(SDA)の弾圧については、米国立公文書館の資料を用いた発表があった他、19日午後のシンポジウム「戦時期宗教団体法下におけるキリスト教」では、戦前の日本において1940年に「宗教団体法」が施行され、国家が宗教統制を強めていく中、日本のキリスト教各教派が国家とどのような関係を辿ってきたか、日本天主公教団(カトリック)、日本正教会、日本聖公会、日本基督教団、ホーリネス系教団の5つの教派について各教派の研究者による発表が行われ、約4時間半にわたり活発な議論がなされた。教派の枠を超えて研究者が一同に会して行なう研究は、今回が初めての試みという。
カトリックでは、1932年の上智大学生靖国神社参拝拒否事件や、1934年の奄美大島でのカトリック教会弾圧事件以降、日本のカトリック教会や外国人宣教師に対する非難攻撃が強まった。そのような時代風潮の中、ローマ教皇庁が日本のカトリック教会にどのような司牧方針を出してきたかについて考察がなされ、1936年の布教聖省(現・福音宣教省)指針「祖国に対する信者の務め」の下、国のための祈祷などが「臣民儀礼」として、ミサや儀式の前後に行なわれた事例などが紹介された。
正教会は、1917年のロシア革命後、教会を迫害してきたソビエト連邦政府の管理下にあるモスクワ総主教庁、これに反発して結成された在外シノド(ソ連以外の地域の東方正教会の主教が構成する常設会議)の2つの勢力が対立し、日本国内では日本人信徒がソ連のスパイという容疑をかけられる恐れがあるなど、二重の困難な時代があり、正教会がどのように教会を維持してきたかが考察された。
聖公会では、1935年に祈祷書の「主よ。我が天皇を救ひたまえ」という章句が読売新聞によって「皇室の尊厳を冒涜するもの」として問題視され、内務省から厳重警告を受けたことを境に、教会の礼拝で「国威宣揚祈願」や「戦勝祈願」が行なわれた。さらに1942年には、立教学院の学則などから「基督教主義」を削除し、「皇国の道」が挿入されるなどの厳しい管理が行なわれてきた歴史が紹介された。
日本基督教団の歴史では、1940年に施行された宗教団体法の下、政府の要請によりプロテスタント各派が合同し同教団が成立した経緯についての発表が行なわれた。文部省が示した「教団設立許可基準」(教会数50以上、信徒数5000人以上)を満たすために、各教会の間で様々なせめぎ合いがあったことや、組合教会、バプテスト、ルーテルなど各派が制定した「教団規則」の史料が紹介され、当時の政府の宗教統制の意図を推測させる貴重な史料として、今後の詳細な研究の必要性が指摘された。また同年、救世軍に対して、新聞、雑誌などのメディアによるバッシングの中から、「救世軍スパイ事件」が発生した事例なども紹介された。
戦前・戦中にかけて最も過酷な弾圧を受けたホーリネス系教団の側からは、文部省によるホーリネス系教会への弾圧に際し、日本基督教団幹部が「結社禁止は当然処置」「日本基督教の為には幸福な事件」であり「当局の大英断」と述べ黙認してきたことが、戦後も長らくホーリネス系教団の日本基督教団へ対する不信を生んできたとの率直な指摘もあった。
続く質疑の時間では、平和主義として知られるクエーカーからの視点の必要性を求める意見や、韓国・中国の研究者からの質問も寄せられた他、学校教育の道徳教科化など国の教育・宗教への管理が強まる現代において、再び同じ道を辿るのではないかと危惧する意見などもあった。
キリスト教史学会は、キリスト教史に関する研究のために1949年設立された。毎年秋に大会が開催され、来年は東京女子大学で開催される予定。