「あなたは、アロンとその子らを任命して、その祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づく者は殺される」(民数記3:10)
他の人で近づく人は殺される。近づいてはならない。アダムとイブは近づけられなかった。あの「輪を描いて回る炎の剣」があり近づけなかった。モーセの幕屋、地上の仮の天の幕屋が作られましたが、そこには祭司だけが近づくことができるというものでした。
次に祭司だけではなく、祭司の下に手伝う人たちがいました。
「幕屋が進むときはレビ人がそれを取りはずし、幕屋が張られるときはレビ人がこれを組み立てなければならない。これに近づくほかの者は殺されなければならない」(民数記1:51)
レビ族は祭司の下で奉仕をする人たちで、いることが特別に許されたのですが、他の人は殺されなければならなかったのです。モーセの幕屋は移動するたびに、作り直していきます。解体し、また作り上げていく、この仕事をするのがレビ族でした。
幕屋の中には契約の箱がありました。ダビデの時代、契約の箱を牛車で運んでいる時に、契約の箱が落ちそうになったので、その時ウザという人が落ちないように手をだして触れ、彼は死んでしまいました。(第2サムエル6章)
「触れてはならない」のですね。
祭司でさえ命がけで神の前にでるのです。こんなに厳しいのに私たちはどうして天国に行けるのか、どうして神に近づけるのでしょうか。
旧約時代、祭司だけが限定で神に近づくことができました。レビ族は幕屋の解体、建てあげが許されていました。祭司はあるものを携えなければ神に近づけなかったのです。
「アロンは次のようにして聖所に入らなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え」(レビ16:3)
これはいけにえの話です。いけにえを持っていかなければなりませんでした。つまり、神に近づくとき、いけにえ、血を携えていなければなりませんでした。そういうものがなければ神に近づけない、それが旧約のシステムでした。しかし、それだけではなかったのです。
神に近づくには色々な制約がありました。祭司たちは何をして近づくのでしょうか。
「主に近づく祭司たちもまた、その身をきよめなければならない。主が彼らに怒りを発しないために」(出エジプト19:22)
神様はアダムとイブを近づけないようにしたのです。しかし、許しがあって、モーセの幕屋(天のまことの聖所の模型)の中で、その臨在に会います。しかし、ある条件を満たしていなければなりませんでした。神の怒りに触れるから、その身をきよめなければならないとあります。
どのようにきよめるのでしょうか。
「彼らが会見の天幕に入るときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである」(出エジプト30:20)
祭司たちは水を浴びなければならない。水できよめられていなければ、神に近づくことはできないのです。
「彼らに言え。代々にわたり、あなたがたの子孫のだれかが、イスラエル人が主のために聖別した聖なるものに汚れたままで近づくなら、その者は、わたしの前から断ち切られる。わたしは主である」(レビ22:3)
神の前に出るということは、私たちがきよくなければならない、汚れたままではいけないのです。
ますます私たちは、日々の生活のなかで自分はきよくない、正しくない。アダムの罪と自分の罪がある。まして旧約の世界でもの、祭司やレビ族ではない。私たちは汚れた罪人である。どうして、私が天国に行けるだろうか?
しかし、神様は私たちを近づける者にしてくださったことを後で見ていきます。
祭司はきよいだけではいけませんでした。祭司たちはモーセの幕屋に入るときにザクロと鈴をつないだものを着けて音がなるようにした服を着ていました。その音がなるから幕屋の中に人が来ている、神様を見たら死んでしまうから、神もその姿を現さないように「私がここにいますよ」というしるしでした。ひもがついていて、もし幕屋の中で死んでしまったらひもをたぐりよせてその祭司を外に出すのです。命がけの奉仕なのです。その服はエポデと言われました。
「アロンとその子らは、会見の天幕に入るとき、あるいは聖所で務めを行なうために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って、死ぬことのないためである。これは、彼と彼の後の子孫とのための永遠のおきてである」(出エジプト28:43)
エポデを着る=祭司の服を着ていないと死んでしまうということです。
神の前に出ることは困難な業でした。その一つでも欠けたら死んでしまいます。神様を見たら死んでしまう。きよくなければ死んでしまう。エポデを着ていなければ死んでしまう。動物の血を携えていなければ死んでしまう。
モーセたちは天上の神様のところに戻ることを望んでいたのですが、それは困難なことだと分かっていたのです。しかし、それを目指していたのです。「行きたい!」と思っていたのです。私たちが究極を求めるなら、神様のところに戻ることなのです。
しかし、それはこんなにも困難なことなのに、どうして私たちは戻れるのでしょうか。
その理由をはっきり知るとき、私たちは日毎に罪を犯そうとも、「私は大丈夫!私はゆるされている!私は旧約の祭司ではないし、ユダヤ人でもない異邦人だけれど大丈夫!」という必ず神の国に入っていける確信を持てる人になってほしいと思います。(続く)
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徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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