私たちは、まず真理を知ることを求めなければなりません。どんなにキリストを信じていても、神の「線路」に乗らなければ祝福を受けることはできません。教会に来て、経済の祝福や病気の癒やしなどを望むより先に、神を知ることを求めるべきです。
イスラエルがカナンの地を目指したように、私たちは天国を求めていくのです。天国を憧れるのは、そこに神がおられるからです。神に近づくためには、まず神を知りたいと望むことです。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6章33節)とはどういうことか。神を知るとはどういうことか。それを見ていきましょう。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(Ⅰテモテ2章4節)
神様は、イエス様を信じ救われて終わりではなく、そこから真理を知るようになることを私たちに望んでおられます。イスラエルの民がエジプトを出て、カナンの地を目指して歩んだように、私たちも救われて、天の御国を目指して歩んでいきます。
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』」(ヨハネ14章6節)
すべては神様の手の中にあります。試練のない人はいません。神様は、試練の中でよいものを与えるために私たちを訓練されます。その訓練の中で、私たちは真理を知るようになります。
信じれば信じるほど、人生が楽になります。わかればわかるほど、人生が楽になります。イスラエルは、荒野の中を歩き、カナンの地に入っていきました。試練はありますが、神様が味方なのです。
ヨシャパテ王(Ⅰ列王記22章~、Ⅰ歴代誌17章~)は、敵が攻めてきた時に恐れましたが、神様が見方だとわかった時、恐れが無くなりました。多くの人の悩みは、現状を見ることから生まれます。真理を知れば、答えが勝利だとわかるので、楽なのです。
ダビデがゴリアテと戦ったとき、神様が味方なので勝利するとわかっていました。見えることが問題なのではなく、また、時間が長引くか長引かないかでもなく、見えない世界を見るときに、問題は解決します。
サタンは、あなたの過ちに目を向けさせようとします。しかし、私たちは悪魔の策略に陥ってはなりません。
「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように」(Ⅱぺテロ1章2節)
知れば知るほど恵みがわかってきます。知れば知るほどあなたが勝利者なのだということがわかってきます。自転車は、こがなければ倒れますが、こぎ続けると前に加速していきます。同じように、真理を知れば知るほど、ますます恵みと平安が豊かになります。
クリスチャンは究極的に、主への個人的な願いが減っていきます。なぜなら、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6章33節)とあります。すべてのものが添えて与えられるからです。そのことがわかればわかるほど、神様をもっと知りたいと思うようになります。
コロサイ2章2節から、神様を真に知る4つのステップを見ていきましょう。
「それは、①この人たちが心に励ましを受け、②愛によって結び合わされ、③理解をもって豊かな全き確信に達し、④神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです」
神の奥義であるキリストを真に知ることです。奇跡的な体験もクリスチャン生活にはあります。しかし、神に守られているのだと信じて生きていくクリスチャン生活は、さらにすばらしいものです。キリストを真に知るには、目に見える問題を解決してもらい、励ましを受けることも必要です。そして、愛されている意識をもって、真にキリストを知っていくのです。
では、コロサイ1章10節から、キリストを知るための知識が増し加えられる4つのステップを見ていきます。
「また、①主にかなった歩みをして、②あらゆる点で主に喜ばれ、③あらゆる善行のうちに実を結び、④神を知る知識を増し加えられますように」
あなたの思いや望みが、本当に主にかなった歩みだろうかと吟味することです。あなたの願いが叶っても、叶わなくても、すべてが神様の祝福の中にあります。自分の望みが叶うために神様がおられるのではないのです。
イエス様ならこの人に何と語られるだろうかと考えることがよくあります。信仰の使い方の「信仰のABCD」(A- ask、B- believe、C- confess、D- do)をしても、祈りが叶えられないという人がいます。まず、主の「線路」に乗ることです。
それは主の道を歩むことです。主にかなった歩み。別の言葉で言うと、あなたの立ち位置はどこにあるのかということです。
「主にある」とはどういうことでしょうか。
「主にある」=in Christ
キリストの中にある自分だということを知らなくてはなりません。自分の力、能力、霊的力、知識がどんなものかも― in Christ ―キリストの中でどうなのかを見なければならないのです。
「とはいえ、主にあっては、女は男を離れてあるものではなく、男も女を離れてあるものではありません」(Ⅰコリント11章11節)
これは、夫婦関係についてです。自分がその人と結婚したいと思っていても、主にあってどうかを考えます。自分の意見を相手に主張するのではなく、主にあってどうなのかを考えます。
奉仕においても、主の業においても、自分の判断ではなく、主にあってどうかを考えます。クリスチャン生活を送る中でも、不満に思ったり怒ったりするのは、見失ってはいけないものを見失った時です。私たちは、見えないものを見て生活していくのです。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない」(詩篇16篇8節)
ダビデはゆるがなかった。それは、いつも主を自分の前に置いていたからです。
イエス様の十字架によって、一切の敵意は退けられました。十字架によって、神は裁くことのできるお方なのに、それを退けられました。十字架によって、神の御怒りは退けられました。十字架によって、私たちは神の御許に行くことができる者となりました。
私が父を赦せなかった時、イエス様は言われました。
「あなたのために私は十字架にかかりましたか?」
「はい」
「私はあなたのお父さんのために十字架にかかりましたか?」
「はい」
イエス様は、私のためにも、お父さんのためにも十字架にかかったとおっしゃいました。また、「私はあなたのお父さんが、あなたにしたことのためにも十字架にかかった」と言われました。
また、私が人に迷惑をかけていることのためにも十字架にかかって下さいました。「だから、あなたがお父さんにしたことのためにも十字架にかかったのだから、あなたはお父さんを赦しなさい」と言われました。
つまり、自分の前に主を置くとは、主の視点で見るということです。クリスチャンだけでなくすべての人のために、イエス様は十字架に架かられました。罪のみならず、すべての問題を解決してくださいました。
「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい」(コロサイ3章18節)
「主にある者にふさわしく」とあります。これを忘れてはいけません。in Christ です。夫も妻にin Christ です。
「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」(エペソ5章8節)
主にあって光なのです。私たちは光の中にある者であり、光の子となるのです。「私は主にあって光となりました」と宣言しましょう。「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい」(コロサイ2章6節)。主にあって歩むのです。
「奴隷たちよ。すべてのことについて、 地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ3章22~23節)
このようにする人は、どんどん出世していくでしょう。会社にあっても、主にある生き方をするのです。主に従うように従うとき、祝福されていくのです。私たちはいつも自分の前に主を置きます。自分の立ち位置を間違えないようにしましょう。
罪を犯したから癒やされないとか、祝福されないと考えるのは間違いです。遠慮せず、主にあっていただけるものをいただきましょう。
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても」(Ⅰぺテロ2章13節)
このような中で私たちは、主を前に置いて歩んでいきます。宣言していきましょう。「私は最高に祝福されています! 私は最高に神様に愛されています! 私は人を赦すと決めました! 人を愛すると決めました! イエス様の名で、アーメン」。今日は詩篇16章8節をもって終わります。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない」(詩篇16章8節)
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徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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