恵みとはどういうものでしょうか。水が高い所から低い所に流れていくように、恵みもまた、高い所から低い所に流れていくものです。今日は、へりくだることについて見ていきます。
クリスチャンとして歩む中で、神様にお願いだけする人がいます。しかし、神様が私たちに何を求めておられるのかを知ることは、私たちが神様を知る近道です。神様の視点がわかれば、この世で叶えられることもわかります。
「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ書6章8節)
神様が私たちに求めておられることは、へりくだって神様と共に歩むことです。
自分が困った時には「神様、助けて」と祈る。でも、健康で元気になり、お金にも困らなくなると、「神様、ちょっと向こうに行っていてください」。また困った時には、「あ~、神様、また病気になりましたから、来てください」。神様は、そんな生き方をあなたに望んではおられません。共に歩む。いい時も共に、悪い時も共に歩んでいく。クリスチャンになることは、神様と共に生きる生活を始めることなのです。
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである』」(イザヤ57章15節)
神様のわざのために用いられたいと思う人は、まずへりくだります。「砕かれた人の心を生かす」とあります。誰よりも謙遜になろうとする心をいつも持っていたいのです。
神様に用いられたいと思わないクリスチャンは、「線路の上にのった電車」とは違う生き方なのです。脱線していては、うまく進むはずがありません。神様と共に生きることは、「神様、私を使って下さい」と祈ることです。あなたは牧師ではなく、信徒かも知れません。でも信徒として用いられる様々な神様の働きがあります。神様はあなたをある目的をもってつくられたのです。
あなたの病が神様に癒やされたのなら、それを人に伝えることがあなたの使命、仕事なのかもしれません。牧師だけでなく、みなが等しく神様のために栄光を現すようになっています。ある方はビジネスマンとしてしっかりと儲けて神様の栄光を表し、リバイバルのために必要なお金を献金する人かもしれません。
神様はへりくだる人を用いますが、もうひとつのポイントがあります。
「これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。主の御告げ。わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」(イザヤ66章2節)
神様が本当に目を留める人は、へりくだる、心砕かれた人です。「へりくだる」にもいろいろあります。人の前にへりくだる、地位の高い人にへりくだる、などです。しかし、私たちが一番へりくだらなくてはならないのは、「御言葉」です。神様にへりくだるとは、神様がおっしゃった言葉にへりくだることです。
「神様はこうしてほしいのだけれど、私はこうしたくない」というのではなく、「神様がそうおっしゃるのなら、私はやりたい」と思う者に、神様は目を留められるのです。神様はあなたを生かします。神様にあって本当に生かされたいと思う人は、神様と共に歩み、神様が計画されたあなたの目的を達成することです。
例えば、コップで身体を流そうとしたら、一体コップに何杯のお湯をすくえば足りるでしょうか。しかし、桶やバケツを使ったら一回でできます。私たち一人ひとりのつくられた目的が、それぞれにあるのです。それを知る事が大切です。その前に、御言葉によってひとつずつ気付かされ、自分が変えられていくことです。
ダビデは、サウロ王に命を狙われていました。油注がれて王になったのですが、実際にはサウロが王でした。サウロ王がなぜダビデの命を狙うのでしょうか。それは、ダビデが王として油注がれた事と、妬みです。「サウロは千を打ち、ダビデは万を打つ」と言われました。ダビデが戦うといつも勝利しました。すると、サウロ王よりダビデはすごいと皆が言い出したので、ダビデはサウロ王にとって邪魔な存在になったのです。何度も命を狙われましたが、ダビデはへりくだり、神様に守られていつも助かるのです。そんな時、ダビデが逆にサウロ王を殺すチャンスを得たのです。しかし、ダビデは殺さなかったのです。
「ダビデの部下はダビデに言った。『今こそ、主があなたに、「見よ。わたしは あなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ」と言われた、その時です。』そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。彼は部下に言った。『私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから』」(Ⅰサムエル24章4~6節)
教会に来て、最初はクリスチャンをみて「あの人赦せないなあ~」と思う。次に伝道者も「赦せないなあ~」。そのうち牧師を見ても「赦せない、あれでも牧師か」と思ってしまう。振り返ってみれば、そういうことがたくさんあったのではないでしょうか。
自分の命を狙うサウロ王が用を足していたのです。その時、サウロ王を刺し殺してしまえば、自分の命を狙う人はいなくなるし、今度は本当に自分が王になるのです。部下は、今チャンスですからこの時を逃さないで下さいと訴えました。
ダビデはチャンスがあったのに、どうしてなのか、サウロ王の上着のすそをこっそり切りました。何か考えがあったのでしょう。しかし、切ったことにさえ、ダビデは心を痛めました。どうしてダビデが祝福されたのでしょう。彼は、ある事実をはっきり理解していたのです。
「彼は主に油そそがれた方だから」(6節)
あなたは、どこかの教会に所属しているかも知れません。そのリーダーに対して、あの人は罪を犯している、私のリーダーにふさわしくないと思うときがあるかも知れません。神の言葉が聞こえず、神に敵対し、迷っているサウロ王を殺すチャンスがダビデにはありました。しかし、罪いっぱいのサウロ王の上着のすそを切ったことにさえ、ダビデは心痛めたのです。
ダビデは、聖書の中にある『油注がれた者に触れるな(Touch not my anointed)』との言葉を知っていました。この人は正しいから赦される、正しくないから攻撃してもいいというものではないのです。
皆さんも、クリスチャン生活をしていく中でいろいろな人に出会うでしょう。多くの油注がれた方に出会うでしょう。サウロ王のように、油注がれても罪の中に行く人がいるかもしれません。そんな時、祝福される生き方が何なのかを知っていれば、ダビデのようにチャンスがあったとしても罪を犯さずに済むのです。
知らないでしている間は赦されることがあります。しかし、知っているのにやっていれば、それは問題となります。どうすれば祝福されるのかを知り、どんどん祝福される者になっていきましょう。
「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな」(Ⅰ歴代誌16章22節)
サウロ王は、王として油注がれていました。しかし罪を犯している王でした。たとえどんな者であっても、今、その者がどんな状況にあったとしても、「神の油注がれた者に触れるな」と書いてあります。
私たちはこれをしっかり知り、今、自分の牧師が間違っているなと思っても、自分からそこに触れてはいけない。代わりに、牧師が自分で間違いに気づくようにと祈るのです。
皆さんの信仰が成長し、「自分はこの人よりもっと聖書を知った、この人よりもっと大きい者だ、この人よりもっと上だ」と思う時が来るかもしれません。実際そうであったとしても、それよりも先にへりくだることです。そうする時にこそ恵みが来るのです。
『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』と言われました。一度油注がれた王に対して、たとえ自分の方が勝っているとしても、たとえチャンスがあったとしても、自分が手をかけることはしないとダビデは決めていました。この心を持つ事が、祝福される秘訣なのです。
「油注がれた」とは、神様がその人に油を注いだことを意味します。たとえば、会社で部長の人を、「部長らしくないから認めない」と言っても、会社が部長と決めたら部長です。それに従わなければならない。つまり、神様が一度油を注いだら、その油注ぎはあるのです。
聖書に「神の賜物と召命とは変わることがありません」(ローマ11章29節)とあります。一度王として油注がれた者に、ダビデは王に対する態度を取っているのです。私たちは、へりくだることを覚えなければなりません。
「そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。彼らは言った。『主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。』主はこれを聞かれた。さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」(民数記12章1~3節)
モーセは、神が油注がれたリーダーです。モーセの兄アロン、姉ミリヤムは、それに従っていました。モーセは預言者であり、アロンもミリヤムも預言をする者でした。
「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか」(2節)
神が油注がれたと言っても私だって預言するんだからと、逆らったのです。その時、神様ははっきりと言われました。
「そこで、主は突然、モーセとアロンとミリヤムに、『あなたがた三人は会見の天幕の所へ出よ』と言われたので、彼ら三人は出て行った。主は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入口に立って、アロンとミリヤムを呼ばれた。ふたりが出て行くと、仰せられた。『わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたしは、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者である。彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか』」(4~8節)
モーセの奥さんが異邦人で、ユダヤ人でないことについて文句を言ってきたのです。しかし、神様ははっきり言っておられます。ミリヤムもアロンも預言者でしたが、預言の受け方が違う、つまり、油注ぎの違いがあるというのです。「わたしは、幻の中で その者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る」というのが、ミリヤムやアロンでした。ところがモーセの場合は、「わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない」というのです。彼らは、モーセの妻チッポラが異邦人だと食って掛かっていたのですが、神様の評価はどうでしょうか。
彼らは分かっていなかった。モーセは、油注がれている者でした。「主の怒りが彼らに向かって燃え上がり 、主は去って行かれた」(9節)。モーセに逆らっていたつもりが、つまり、神様に逆らっていたのです。「神に油注がれた者に触れるな」とは、神様が油を注いだ人に立ち向かうとか敵意を持つことは、神様に逆らうことだということです。
もちろん、間違ったリーダーもいます。ですから、祈るのです。自分から逆らってはいけません。リーダーが正しい歩みの中に戻れるように祈ることです。もしあなたがダビデの立場にいるならば、自分から何もしなくても、サウロのリーダーが自然に失脚し、あなたが残ります。ですから、あなたが手を加えることはしない。あなたが裁かれないためにです。
その結果何が起きたのでしょう。
「雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリヤムはツァラアトになり、雪のようになっていた。アロンがミリヤムのほうを降り向くと、見よ、彼女はツァラアトに冒されていた。アロンはモーセに言った。『わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。』それで、モーセは主に叫んで言った。『神よ。どうか、彼女をいやしてください』」(10~13節)
結局、神さまの怒りを買い、ひどい皮膚病になってしまいました。その日モーセは、ミリヤムに対し、そんなことを言うからこんな事になるのだとは言わず、ダビデのように、癒やしてやって下さいと願ったのです。アロンは、11節でやっと、モーセに「我が主よ」と、つまり「あなたがリーダーです」と言ったのです。はっきり知っている人は祝福されます。それがわからない人は祝福を失うのです。へりくだっていたダビデは、後に本当の王になったのです。
へりくだることについてもう一つのポイントは、油注がれた者への態度を間違わなければ、あなたは祝福されるということです。神様が油注いだということは、「神様が遣わした者」だということです。
「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません」(マタイ10章40~42節)
決して報いに漏れることはないとあります。その報いをあなたが受けるのです。なぜならそのようにへりくだるから、その油注ぎ、恵みの流れが、あなたの方にやってくるのです。
そして、「水一杯でも飲ませるなら」報いに漏れないと。
モーセには、従者がいました。
「そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った」(出エジプト記24章13節)
ヨシュアは、リーダーのいくところに共に行くのです。シナイ山に登って行き、十戒をもらう時、彼は、待っていなさいと言われる所まで共にいたのです。モーセを神様に選ばれた預言者として従っていく忠実な「従者」としての心です。ヨシュアはどういう恵みを受けたのでしょう。
「さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた」(ヨシュア記1章1節)
ヨシュアは、結果的にリーダーになっていくのです。モーセがかつてヨシュアの上に手を置いたので、ヨシュアは知恵の霊に満たされていました(申命記34章9節)。油注がれた者を油注がれた者と認めた時、油注ぎが流れ、移っていくのです。
私たちはエリアとエリシャを知っています。エリアも油注がれていました。エリシャはそれを知っているから、エリヤが天に取り去られる前に「あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように」(Ⅱ列王記2章9節)と願ったのです。
へりくだる思いがあるとき、恵みが流れていくのです。これを覚えて、何よりもまずは神様のことばにへりくだる者であること、そして神様が立てた器に対して、間違っているリーダーに対しても祈っていく、執り成すことにより、あなた自身が祝福され、油注ぎをもらう、祝福される者となることです。
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徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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