「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、 わたしを覚えて、これを行いなさい。』ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません」(Ⅰコリント11章23~31節)
旧約時代にはアブラハムの祝福(経済の祝福と癒やし)はありましたが、祭司は至聖所の奥には入っていけませんでした。しかし、私たちは入っていくことができます。それは、天国に行けることを意味します。イエス様の身代わりの十字架による恵みで、私たちは罪のない者として天国にいけます。
聖餐は、前回の聖餐後に犯した罪がゼロになるために受けるのではありません。私たちは恵みの上に恵み(ヨハネ1章16節)を受けています。プラスの上にプラスになることが聖餐式なのです。
「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」(エレミヤ書29章11節)なのです。正しく聖餐を受けるとき、恵みと祝福があります。
「この杯は、わたしの血による新しい契約です」(25節)。イエス様の血の契約は、私たちの貧乏、病気、第二の死の呪いを取り去りました。聖餐式では毎回、私たちはブドウジュースをいただきますが、それはイエス様の血の象徴です。イエス様の血潮であり、神の血潮なのです。
私たちはアダムの子孫なので罪があります。また、日々罪を犯します。しかし、イエス様は罪を犯したことのないお方です。神ご自身が人間となって来られました。その血潮は、私たちの罪のみならず、すべての人間の罪を洗い、たとえ天国で犯す罪があったとしても全部支払ってくれています。
イエス様の血潮はすべての罪が消されるほど、高価で尊い聖いものです。だから、正しく聖餐を受けましょう。
「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります」(27節)。正しい受け方をすれば私たちは祝福を受けます。
「ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい」(28節)。自分を吟味し、罪の告白をします。イエス様は、すべての罪を、未来に犯すであろう罪についてもすべて支払って下さっています。告白をしないでいたら、罪を持っている状態です。ですから、聖餐を受ける前に罪を告白し、聖い状態で受けていきます。
「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら 、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1章7~9節)
7節に「私たちは互いに交わりを保ち」とありますが、誰との交わりなのでしょう。Ⅰヨハネ1章3節に「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」とあります。私たちは、罪を告白することによって、光の中を歩み、神ご自身とキリストの交わりの中に入っていきます。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(9節)。この世では何か罪を犯したらその罪の重さに合わせて賠償しなければなりません。しかし聖書では、私たちが告白すれば罪は消えると言っています。これは、「はじめから、神はあなたを赦すと決めている!」ということです。
放蕩息子が罪の意識をもって帰ったら、とっくの昔に父である神は赦していました(ルカ15章)。この息子はあなたです。神は、とっくの昔に赦しているのに、赦していないのは自分自身です。罪責感を持っている方は今日告白してください。イエス様の身代わりの死によって赦されたあなたは、天国にいけるという恵みを持っています。
「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜい います」(29、30節)
「みからだをわきまえないで」とは、どういうことでしょう。私たちはイエス様を信じたとき、キリストのみからだの中に入りました。聖餐はきよいものを受けるので、その自覚をもち、私たちがきよいものになるために罪を告白します。
コリントの教会には問題がありましたから、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいました。私たちは人に告白するのではなく、神に告白し、その罪をイエス様の身代わりによって赦され、もはやそれは私自身のものではないと切り離す恵みに入ることができます。
誰一人、聖餐によって害をうけるものはなく、みなが癒やされ、健康になり、祝福された人生の中に入れるようになったと信じます。罪を告白し、知らずに犯した罪があったら赦してください、と祈ります。
「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ローマ8章1節)
イエス様を信じた私たちは罪に定められないのです。それはイエス様が身代わりに支払ってくださったからです。一億円の借金をもっていても、親が支払ってくれたら借金は消えるのと同じです。
「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています」(ローマ6章6節)
神はイエス様を通して私たちを二つに分けました。古い自分と新しい自分です。「死んでしまった者は、罪から解放されているのです」(7節)。古い自分はイエス様の十字架で死んでしまったのです。ですから、私たちは罪から解放されています。
「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」(11節)。キリストにある新しい自分です。
クリスチャンはどういう生き方をするのでしょう。この11節の「思いなさい」とは、「計算しなさい」ということです。一億円の借金を親が支払ったら借金はもうないという「計算をしなさい」ということです。ですから、イエス様の十字架によって、私たちにはもう罪がないという計算をし、そのように生きるのです。
私たちは日々罪を犯してしまいますが、パウロは次のように言っています。
「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」(ローマ7章18~19節)
「ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」(17節)とさえ言っています。「自分に住み着く罪がしたことであり、私ではない。イエス様が支払ったので、私には関係ない!」と言っています。
「もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です」(20節)
イエス様が十字架上で成し遂げてくださったこと、聖餐の恵みの意味がわかったのなら、私たちはこんなにも赦され愛されているのですから、人を赦せる人になり、愛せる人になるのです。
「すなわち、主イエスは 、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい』」(Ⅰコリント11章23~24節)
パンはイエス様のからだです。「これはあなたがたのための、わたしのからだです」と言われました。神であるイエス様は、全人類の罪を負うために、体をもって来られました。
私たちは自分では天国にいけないこと、自分を赦せないこと、自分の罪を聖められないこと、そのために、神が人となって十字架についてくださった。パンはその身代わりのからだです。
私たちが聖餐式でいただくパンは、ちぎられたパンです。イエス様が私のためにむち打たれ、肉のかたまりが飛び散りました。聖書には「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(イザヤ書53章)と書かれています。イエス様が、私たちのために喜んで身代わりとなってくださったことを意味しています。
ちぎられたパンのもう一つの意味は、一つひとつのピースを戻すと一つのパンだということです。みなさんが、キリストのからだの一部であるという意識です。信仰生活はあなた個人がするのではなく、みなが一つという意識をもっていくものです。
「この杯は、わたしの血による新しい契約です」(25節)。聖餐にあずかることは新しい契約です。ブドウジュースは、イエス様の流された血の色です。あなたが罪赦されて、経済的祝福、健康、霊的祝福とすべての祝福を受ける契約ですが、契約は、一方的に与えられるものではありません。
私たちがそれを受けるには、何をしなくてはならないのでしょうか。それは、私たちがキリストに従うという契約です。キリストの血潮の契約をいただくことによって、私たちはキリストに従っていく。まことの神が私たちの神で、その神が守ってくれる。どんな問題があっても、神が味方なら誰が敵対できるでしょう。この守りが私たちの上におよぶのです。聖餐式ではこの事を覚えてブドウジュースをいただきます。
「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように」(Ⅰぺテロ1章2節)
病んでいる人は癒やされる特権にあずかり、経済に困っている人は祝福され、そして、天国に行ける特権にあずかっているのです。まことの神が私たちの神で、どんな問題があっても神が味方なら誰も敵対できないというこの守りが、私たちの上におよぶのです。
宣言しましょう。「私は最高に祝福されています! 私は最高に神さまに愛されています! イエス様が身代わりになられるほど、愛されています! 私は決めました。人を赦すと。人を愛すると、決めました!」
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2章20節)
私はキリストとともに十字架につけられ、死にました。今、私たちはキリストの体の中にあるのです。私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。「神の御子を信じる信仰」とは、英語で「I live by faith in the Son of God」です。キリストの信仰で生きるのです。
問題に直面しても、イエス様なら勝利できると考えます。少年ダビデは、ゴリヤテと戦うとき、自分ができると考えたのではなく、神ならできると考えました。(Ⅰサムエル記17章)。
宣言しましょう。「私は今から自分ができるか? ではなく、神ができるか? という考えで生きていきます。神には何でもできるので、私は必ずできるのです。古い私は死にました。今、キリストが私の中で生きておられます。キリストは病気ではないので私は癒やされました。私は成功するようになっています。私はキリストの信仰で生きるのです!アーメン」
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徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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