レビ記17章
(1)レビ記17章の位置と内容
① 位置
17章は、レビ記前半と後半の橋渡しの役割を果たしています。
1~16章・・・イスラエル共同体の礼拝儀式にかかわること。
18~25章・・・日常生活全体の中でのきよめ。
礼拝儀式は、特に16章で焦点を絞っている贖罪に基づき、聖なる生活、礼拝の生活へと展開されて行くのです。そうです、地上での生活や文化の積極的意味、学問や職業への豊かな広がりを指し示しています。それこそ真の礼拝です。
② 内容・構造
1、2節、序。主なる神→モーセ。モーセ→アロンとその子ら。単に祭司だけでなく、イスラエルの民全体、さらに在留異国人も、差別なく同じ既定のもとに。
3~7節、家畜をほふるときは、原則として宿営の中で。もし外でほふったとしても、必ず会見の天幕に持ってこなければならない。そうしなければ、その人は罪を負い、民から断たれる。周囲の人々の偶像へのささげものと混同しないため。
8、9節、献物は必ず定められた場で。これも周囲の偶像礼拝と接触しないため。
10~12節、血を食べてはならないことを強調。周囲の偶像礼拝では、動物の血を食べることが普通であったため。
13~16節、家畜ではなく、狩りで捕らえたものを料理する規定。
17章全体を通じて一貫しているのは、小さなことをまで配慮しながら、偶像礼拝との日常ありきたりの生活の中で真の礼拝をなしていく精神です。
(2)3~7節、何故注意深く命令されているか
イスラエルの民が生かされている環境の中での危険性のため。野外で動物がほふられること→偶像礼拝の可能性を軽視しない。また環境の影響を軽視しない。細心の注意を払う。根底は、唯一の神を礼拝する喜びの必死。参照、申命記12章12~25節。
① 変わり行くもの(生活の場の広がり)
② 変わらないもの
③ 変えてはいけないもの
三者の関係を見抜き、大切にする道を示しています。目的は変わらないが、手段は状況によって変わる場合があります。
中心は7節、「また、彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。これは彼らにとって、代々守るべき永遠のおきてとなる」。そうです、中心は偶像礼拝との対決です。
(3)11節
「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である」
非常に大切。単なる屠殺の方法についての教えではない。ユダヤ人は、肉の中に血を残さず流し出す屠殺方法を厳しく守る。参照、使徒15章28、29節。21章25節。
犠牲は、本来人が神に向けてなすのではなく、神が人のために備えてくださる恵み、まさに、アドナイ・イルエ、主の山に備えあり(創世記22章14節)です。周囲の偶像礼拝の場合と根本的に違う。神の恵みに対する応答として、人から神への礼拝、礼拝の生活・生涯への広がり、この関係が基本。
出エジプトの出来事は、神の先行的な恵み、この恵みへイスラエルの民の応答。16章、義認は神の恵み。17章以下、その応答としての聖化、きよめの道、それも恵み。
参照Ⅰコリント15章10節、「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」。
(4)新約聖書、主イエスの血による罪の贖い
参照、ヘブル9章22節。 Ⅰペテロ1章18~21節、黙示録1章5節、5章9節。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます」(ヨハネ6章54節)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、『哀歌講解説教 哀歌をともに』、『ルカの福音書 味読身読の手引き①』以上クリスチャントゥデイ、など。
■ 外部リンク:【ブログ】宮村武夫牧師「喜びカタツムリの歩み」