レビ記16章
(1)前後関係の中での16章
「ふたりの子の死後」(1節)、告げられた1節と2節には、10章に見るアロンのふたりの子の死をめぐる事件を記しています。ですから11~15章では、挿入のように清さと汚れについて記しています。
10章10節と11節、「それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、 また、主がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである」と、祭司の役割の大切さ、聖と俗、汚れと清さの区別の確立について述べています。
祭司の使命の内容は、11~15章にある通りです。それらの記述は、単なる汚れと清さの羅列ではなく、祭司の整えを目的としているのです。
10章は、アロンの子たちの異火に対する裁き。祭司が自らを整えず御前に出れば、このようにと警告。16章では、そのような裁きを受けないための整え、10章と16章は、この意味で対比。
さらに11~15章を通し、汚れと清めの区別を越えて、人は様々なことにより、いかに汚れやすいか、いや現にいかに汚れているか、それ故神によるきよめなしに、御前に出られない存在である事実を提示。
(2)16章、主題は贖罪の日
イスラエルの民は、年に一度(30節「この日」、34節「年に一度」)の贖罪の日を目指して日々生きるのです。この贖罪の日との対比で、ヘブル7章、9章においては歴史上唯一度の主イエス・キリストの完全な贖い、私たちの日々を支えている恵みの事実を指し示しています。
(3)内容・構造
① 1~5節、贖罪の日についての準備。
② 6~10節、二頭の山羊、儀式の大要。
③ 11~19節、贖い。
11~14節、アロンと家族の贖い。
15~19節、民のための贖い。
④ 20~22節、アザゼルの山羊。
⑤ 23~28節、全焼のいけにえ。
⑥ 29~34節、安息と断食。
(4)幾つかの点
① 1節「アロンのふたりの子の死後」
参照10章1、2節。ふたりの死後、あのようなことが再び起こらないようにと警告。さらに恵みとして贖いの方法を積極的に教えています。
② 8節「アザゼル」
罪の全き除去を具体的に表している儀式。
③ 14節「雄牛の血を取り」
聖所から出て来て、祭司から血の入った器を受け取り、再び至聖所に入る。
④ 21節「全部それのうえに告白し」
按手と告白によって罪はやぎのうえに移されると転嫁の恵みを明らかにしています。
(5)主イエスの十字架の贖い
主イエスの十字架の贖いにおいて、贖いの日の儀式が指し示しているすべてのことが成就している事実を、ヘブル人への手紙の著者は繰り返し宣言、解き明かしています。
① ヘブル7章24~27節
「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです」
② 9章23~28節
「ですから、天にあるものにかたどったものは、これらのものによってきよめられる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもさらにすぐれたいけにえで、きよめられなければなりません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
③ 10章19~25節
「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、『哀歌講解説教 哀歌をともに』、『ルカの福音書 味読身読の手引き①』以上クリスチャントゥデイ、など。
■外部リンク:【ブログ】宮村武夫牧師「喜びカタツムリの歩み」