レビ記14章
(1)13章と14章の結び
13章は日常的なことばで表現した診断、それに対して14章は治療。聖書全体の流れから言えば、13章は罪の指摘、14章は贖い・救いに当たると言えます。
(2)14章の分解
二つに大別して、それぞれに細分。
① 1~32節、ツァラアト・重い皮膚病を患った人のきよめ
1~9節、きよめの儀式
10~20節、きよめのささげ物
21~32節、貧しい者の場合
② 33~57節、家(と衣服、54節)の患部・かび
33~42節、診察と処置
43~47節、再発の場合
48~53節、きよめの儀式
54~57節、まとめ
(3)きよめの儀式、1~9節
参照、48~55節。祭司の役割は、全治を確認するだけで、癒やしそのものは、主なる神ご自身によってなされるのです。儀式は全治を判別し確証するだけです。
現代でも、こころある医師は、自らの力で癒やすのではなく、からだの回復力を背後で助けると自分の役割を理解し、明言なさいます。参照、Ⅰコリント3章6節「成長させたのは神」。
(4)きよめの理解
この章で問題にされているのは、狭い意味での病気の癒やしではない。
7、9節「その者をきよいと宣言」「その者はきよい」。「きよい」とは、聖別、特別な目的のために分けられ、ささげられるとの意味です。
10~20節のきよめのささげもの。特に11節「きよめを宣言する祭司は、きよめられる者と、これらのものを主の前、会見の天幕の入口の所に置く」。積極的に自らの生活・生涯を主なる神の御前にささげる。契約の神に契約の民としてささげ仕える、これこそ、真実な癒やしです。儀式は、この事実をあきらかにする役割を担うもの。
◇ 二羽の小鳥・イスラエルを現す、22、23節
一羽は、贖罪の死、死ぬべきもの。他の一羽は、解放、生きて自由に仕える。以上の両面を含み、その全体が大切です。
◇ 「主に向かって」、「主の前」、11、12、16、18、23、24、27、29、31節で繰り返し強調。
◇ 油注ぎ、15~18節。
(5)血の重視、6節「小鳥の血の中に」
14章14節「祭司は罪過のためのいけにえの血を取り」
聖書全体の流れの中で。創世記9章4節「しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない」。出エジプト記24章6~8節、契約の血、「モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。『主の仰せられたことはみな行い、聞き従います。』そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。『見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である』」
聖書全体、特に新約聖書において、主イエスの血=主イエスのいのち。
ヘブル9章11~14節、動物の血←→主イエスの血。Ⅰペテロ1章13~25節、特に19節「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」。ローマ3章25節など。
(6)レビ記を最初に読んでいる人々にとって
イスラエルの民の周囲・古代オリエント世界では、血は不気味な恐ろしいものと受け取られていたようです。地下に存在する恐ろしい神々に属すもの(ギリシャでも呪いとか死に結び付く)、積極的な意味を持たないのです。
それに対して聖書では、血はいのち、力。不気味とか、恐れから解き放たれています。いのちの源である神との結び、交わりが中心です。
(7)貧しい者への配慮
21~32節に渡って。経済的な条件ばかりでなく、肉体的、精神的、家族的、年齢、職業、学歴などの条件についても。どのような条件の制約の中にある人々に対しても、十分な配慮が払われています。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、『哀歌講解説教 哀歌をともに』、『ルカの福音書 味読身読の手引き①』以上クリスチャントゥデイ、など。
■外部リンク:【ブログ】宮村武夫牧師「喜びカタツムリの歩み」