レビ記10章
(1)10章の文脈と内容
8~10章の文脈で際立つのは、主なる神の命令が与えられ、それに一つ一つ応答して行く様です。その流れの中で、10章1~3節は、異火の悲劇、光に対して闇(やみ)の場面です。
①1~3節、ナダブとアビブの死
②4~7節、ナダブとアビブの葬り
③8~15節、警告と配慮
このような失敗・挫折・さばきの中で、主なる神から、モーセを通してではなく、直接アロンにことばが語られているのです。
「それから、主はアロンに告げて仰せられた」(8節)
④16~20節、新任祭司の悲しみ
(2)9章22~24節と10章1~3節の比較
9章は命じられた通り応答。←→10章1~3節、主のことばに反する、異火。
主の御前から火、9章24節では礼拝が受け入れられたしるし。←→10章では、犠牲ではなく、主のことばに反する祭司を焼きつくす。
祝福かさばきのいずれかを通して、栄光が現されます。栄光とは、主なる神ご自身の聖なるご本質が外に向かって輝きだすことです。本来なら、献げる者が受けるべきさばきを、犠牲が身代わりとなり受けていると判断できないでしょうか。
(3)聖書に見る挫折の記事
創世記1、2章に続く、創世記3章。そこには、最初の挫折の記事を見ます。今見ている、出エジプトを出発点とする荒野の旅路においても、しばしば民の不従順。約束の地に入って後も、バビロン捕囚までの歴史に、民の不従順の実態を見ます。
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(4)警告と配慮、8~15節
8、9節。主なる神は、なおアロンに直接告げる。挫折が事実であるように、その中で、なお主なる神のあわれみのことばも、何よりも事実なのです。主なる神は、恵みをもて、そのご栄光を現わすために語り続け給います。
私たちも、神のあわれみにより悔い改めて恵みにより栄光を拝していきたい。
(5)新任祭司の悲しみ、16~20節
①17節、参照6章26、29節。民の罪を贖うために食べるべきもの。そのことを通して、主なる神が恵み深くそのささげものを受け入れられた事実を示します。
②19節、アロンも残りの二人の祭司も、神の前に兄弟、息子の罪を認め、また悲しみの故に、自分たちが肉を食べることはふさわしくないと考えたため、食べなかった。聖なる所で食べる特権(12~15節)の行使をアロンは遠慮したのです。
③20節、モーセはアロンのことばを受け入れます。
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、『哀歌講解説教 哀歌をともに』、『ルカの福音書 味読身読の手引き①』以上クリスチャントゥデイ、など。
■外部リンク:【ブログ】宮村武夫牧師「喜びカタツムリの歩み」